B
一、五日ほどのち六階へ上ってゆくと、彼はたぐまったような恰好で寝台で横になっていた。非常に痩せ細り、顔などは、びっくりするほど小さくなっていた。自分が入って行くのをもどかしそうにながめながら、癇癪をおこしたような声でいった。「おい、おれはこうやって三日も貴様を待っていたんだぞ……おれは動けなくなったんだ。手も足も萎《な》えてしまって、身動きひとつ出来やしないんだ」どうしたのかとたずねると、彼は忌々《いまいま》しそうに唇をひきゆがめながら、「なあに自殺するつもりでいろんなものを出鱈目に飲んでやったんだ。眼薬だの煙草の煮汁だの写真の現像液だの……そして眼をさまして見たらこんなことになっているんだ」そういうと火のついたような眼で自分の眼を見つめながら「貴様を待っていたのは、おれを窓から投げだして貰いたいからなんだ。手足がすこしでも利《き》いたら這って行ってもじぶんでやる。死ぬのにひとに手数をかけたくないが、いまいったように指一本動かせやせぬ。だから貴様にたのむのだ。金もなく身よりもない外国で中風《よいよい》になって生きているのは、どんなに悲惨か貴様にもわかるだろう。余計なことをいう必要はない。友達がいに最後のいやな役をうんといって承知してくれ。遺書は書いてあのとおり机に載せてある。どんな意味でも貴様に迷惑のかからないようになっている……そしてへんないいまわしをすれば貴様に投げだしてもらえたらどんなにうれしいだろうと思って……なにしろ、フランスくんだりの、この汚い部屋で一人で壁をながめながら死ぬんじゃあないから……最後に、貴様の手の温みを身体に感じながら……」
「よし、投げだしてやる。いますぐでいいか」
彼はうなずいた。自分は猶予なく彼を抱きあげた。これが肉体かと思うような軽さだった。彼は満足そうにつぶやいた。
「システムは完成した。とうとうポアンカレをとっちめてやった。どんな方法か、読めばすぐわかる。手帳は胸のかくしに入っている」
「おれにくれるというのか」
「やる」
自分は彼のかくしから手帳をぬきとって上着のポケットへ放りこむと、彼を窓框に立たせて、巴里《パリー》の屋根屋根をしばらく眺めさせてやった。彼は顔を顰めて、「もういい」といった。
自分はうしろから強く突いた。彼は勾配の強いスレートの屋根の斜面を辷り、蛇腹の出ッ張りにぶちあたってもんどりをうち、足を空
前へ
次へ
全21ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング