当である。……
 葵は、アパートの差配の娘や、〈シネラリヤ〉の仲間に久我のことを話すときは、彼を(許婚者《フィアンセ》)とよんでいた。彼女に好意をもつほどのものは、一日もはやく、その披露式を見たいと望むのだった。だれよりもそれを望んでいるのは葵自身であるが……
 葵は、ほとんど毎晩(許婚者)に逢っていた。久我が〈シネラリヤ〉へ葵を迎いに来、それから角筈の界隈で、なにかしら、二人で夜食をたべるのだった。西貝もときどき仲間をつれて、二人の夜食に加わった。乾老人の骨董店も、すぐその近くにあったので、迎えにやれば一議に及ばず駆けつけてきた。
 葵は、久我と二人きりでいるときも、大勢で卓についているときも同じように楽しそうだった。殊に、そういう時は、久我のそばによりそっていて、初心の主婦のように、いろいろと細かい心づかいをするのだった。西貝が、酔って猥談をしても腹を立てなかった。乾がコップから酒をこぼして胸をぬらすと、そのたびに立って行って、やさしく拭ってやるのだった。すると、乾は、葵嬢よ、あんたを最初に警察に密告したのは、このあたしなんだが、なんとも、かんとも申しわけのない次第で……、と、顔じ
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