めて首をたれたのは、これほどまでに真率な久我にたいし、あくまでも偽りとおさねばならぬ、いまわしい自分の経歴を悲しんだからだった。
 葵が久我に、一ヵ月ほどまえに、はじめて東京へ来たといったのは嘘である。彼女は東京で生れ、そして、そこで育った。
 葵はある大名華族の長女に生れた。西国の和泉《いずみ》高虎の一門で、葵の家はその分家だった。代々、木賀に豊饒な封地をもち、瓦壊前は鳳凰の間伺候の家柄だった。
 旧幕時代の分家というものは、親戚であっても、だいたい、家臣同様の格に置かれたものだが、和泉藩に於ける分家とは、あたかも、主人にたいする奴僕《ぬぼく》の関係にひとしかった。葵の家の家憲には、つぎのような一章があったのである。
〈……ひたすら、ご本家さまに恭順し、いかなるご無能のおん申しいでにても、これに違背せざるを、家憲の第一といたすべく、子々孫々……〉。この家憲は、現代もなお、違背なく固く遵守されているのだった。
 葵の父は、生来|羸弱《るいじゃく》な、無意志な人物だった。母は美しいひとだったが、劇しい憂鬱症《ヒポコンデリー》で、葵のものごころがついた頃には、もう、ひとり離れた数寄屋のなか
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