くつも投げだされていて、そのうえを蠅が飛びまわっていた。遠くで、劇しく撃ちあう竹刀の音がしていた。〈司法主任〉という標札のかかった扉があいて、分厚な書類の綴込をかかえた丸腰の巡査のあとから、葵がそろそろと出てきて、窓ぎわのベンチへ腰をおろした。
 面《おも》やつれがして、まるで違うひとのように見えた。服は寝皺でよれよれになり、背中に大きな汗の汚点をつくっていた。首すじや手の甲はいちめんに、南京虫にやられた、ぞっとするような赤い斑点で蔽われていた。
 巡査がつぎの扉へきえると、葵はぼんやりした眼つきで窓のそとを眺めながら、無意識のようにぽりぽりと手の甲を掻きはじめた。
 窓のそとは空地になっていて、烈しい陽ざしの下で、砂利が白くきらめいていた。
 葵は急に眼をとじた。瞼のあいだから涙が流れだしてきた。泣いているのではない。烈しい光が睡眠不足の眼を刺激したのだ。
 葵は三日目にようやく留置をとかれた。極度の疲労と緊張のあとの麻痺状態が頭を無感覚にして、なにも考えることが出来なかった。なんのためにここへ坐りこんだか、それさえもあまり明白ではなかった。ただ、むやみに痒かった。
 葵は辛辣な取調
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