ると、びっくりしたような眼つきをしていつまでも久我の横顔を眺めていた。
 酒棚の上の蝉鳴器《ブザ》が、むしろ、愛想よくジイ、ジイ……と、鳴りだす。
 踊りは急に止み、男と女は急いでおのおのの小卓に駆けもどると、へんに空々しい顔をした。一人の女が蓄音機をとめる。床の照明が消されると、たちまちその上に小卓と椅子が押し出されて、そこで一組の男女がジンジャア・エールを飲みだした。このすべての動作は、めざましくも一瞬のうちに行われた。まるで、芝居の「急転換《どんでんがえし》」のようであった。
 はいって来たのは、四十歳位の、医者のような風態の男で、入口の傍に坐っている久我を見ると、急に顔をそむけるようにして、奥まった小卓の方へ行ってしまった。
 鮭色の娘は、右手を彼の腕に巻きつけながら、踊ってちょうだい、といった。久我は優しくその肩に手を置きながら、葵というひとに、友達からのことづてがあってきたのだが、もしここにいるなら逢いたいものだ、といった。
 娘は、まじめな顔をつくりながら、
「あら、そんな方、ここにおりませんわ。(すぐ自分で笑いだして)うそよ。……葵さん、いま階下にいるのよ。よんで来たげ
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