じである。
 絲満南風太郎の殺人事件も、〈謎の女〉とか、〈未知の財産遺贈者〉とかいう工合に、偶々過剰な架空的要素を含んでいたので、小説嫌いの、実直な世間からは、いささか小馬鹿にされているかたちだった。
 しかし、一方には好奇的傾向の強烈な連中もいて、(これは、いつも案外に大勢なのだが……)その方面で、一週間以来、この事件はさまざまに論議されていた。
 加害者が若い女で、しかも、初心者の手口だというところから、いうまでもなく、これは情痴の犯罪だ、などと、うがった批評をするものもいた。……早合点をしてはいけない。では、遺産相続通知のほうはどうだというのか。情痴説は、そこで、ぐっ、と、つまってしまう。〈その女〉については、新聞もいろいろと奇抜な想像を加えて書きたてたが、一般が最も知りたがっている、〈謎の遺産相続通知〉の真相については、たぶん、警察の捜査方針を混乱させるための犯罪者のトリックであろう、という以外に、満足な説明をすることが出来ないのであった。
 犯罪の前夜、〈那覇〉に現れたという、二十二三のすらりとした断髪の〈その女〉はその後杳として行衛が知れないのだった。しかしその存在は肯定されていた。智能不全な〈那覇〉のボーイの幻視ではなかったのである。〈その女〉を認めた人間が、ほかにもう一人いた……。
 ある警官が、その夜、越中島の帝大航空試験場の前を右へ折れて、古石場町四丁目のほうへ歩いてゆく女を見た。もう、間もなく午前三時という時刻だった。非常に急いで歩いておりました。店を仕舞ってきた女給のような風態か。いや、そういう種類の女ではありません。上品な身なりの……どこかの令嬢といった風態だったのであります。時間も時間でありますので、私は訊問しようと思い、おい、おい、と、声をかけようとする途端に、四丁目一番地の角を曲ってしまいました。丁度その時、私は、その道と丁字形に交わる路地の奥を巡回して居りましたので、急いでそこを飛びだし、その角を曲って見ましたが、その時はもう姿が見えなかったのであります。……ご承知の通り、あの辺は小さな路地が錯綜している場所でありまして、いかんとも手の下しようがなかったとはいえ、完全に職務を遂行し得なかったことに対し、甚だ自責の念を、感じているのでありまして……
 その警官は、夕刊で南風太郎の殺害事件を読むと、報道された〈その女〉の風態が、前夜見た
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