金狼
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)溝渠《ほりわり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)古|軌条《レール》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#二の字点、1−2−22]
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     1

 市電をおりた一人の男が、時計を出してちょっと機械的に眺めると、はげしい太陽に照りつけられながら越中島から枝川町のほうへ歩いて行った。左手にはどす黒い溝渠《ほりわり》をへだてて、川口改良工事第六号埋立地の荒漠たる地表がひろがっていて、そのうえを無数の鴎が舞っていた。
 その男は製粉会社の古|軌条《レール》置場の前で立ちどまると、ゴミゴミした左右の低い家並を見まわしながら、急にヒクヒクと鼻をうごかしはじめた。なにか微妙な前兆をかぎつけたのである。
 斜向いの空地のまんなかに、バラック建ての、重箱のような形の二階家があって、大きな柳の木が、その側面をいっぱいに蔽うようにのたりと生気のない枝を垂れていた……
 男はひどく熱心にその家を眺める。それから、入口のガラス扉のそばへ近づいて行って、ほとんど消えかけているペンキ文字のうえへかがみこんだ。
〈10[#「10」は縦中横]銭スタンド、那覇〉と書いてある。
 しばらく躊躇《ためら》ったのち、その男は思い切ったように扉《ドア》をおして、酒場のなかへはいって行った。
 うす暗い酒場のなかにはまだ電灯がついていて、土間のうえの水溜りが光っていた。ぷんと、それが臭《くさ》かった。番台では汚れ腐った白上衣を着た角刈の中僧が無精な科《しぐさ》でコップをゆすいでい、二人の先客がひっそりとその前の卓《テーブル》に坐っていた。
 一人は縮みあがった綿セルの服を着た五十歳位の、ひどく小柄な小官吏風の男。まるで顎というものがなく、そのうえ真赤に充血した眼をしているので、ちょうど二十日鼠がそこに坐っているように見える。もう一人は四十歳位で、黒いソフトをあみだに冠った、すこしじだらくな風態だが一見して高等教育を受けた男だということがわかる。酒のみだと見えて、鼻のあたまが赤く熟しかけている。
 たった今はいって来たほうは、夏帽を窮屈そうに膝に抱えたまま、見るからに落ちつかないようすで街路のほう
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