きとれぬような声で、いった。
「……もう、すんだと思ってたのに。……いややわ」
久我が、つづけた。
「あの男を、私は洲崎署の刑事室で見たんです、二度ばかり。……(西貝と乾に)さっきお二人が、あの男の傍をとおりぬけようとすると、あの男は、お二人のほうを顎でしゃくって、誰れかに合図してました」
西貝が、高っ調子でいった。
「じゃ、たぶん小生の知っとるやつだろう。……小便しながら面を見てくる。大きなことをいったら、とっちめてやる」
虚勢を張っているようなところもあった。乾は、子供のように手をうち合わせながら、叫んだ。
「そう、そう、……おやんなさい、おやんなさい!」
西貝は、立ちあがると、どすん、どすんと足を踏みしめながら、そのほうへ歩いていった。乾は眼をキラキラ輝やかせながら、熱心にそっちを眺めていた。西貝は、皿のなかへうつむいている男のそばへ近づく。そこで歩調をゆるめて、じろじろと、しつこくその顔を眺め、それから、広間の奥の手洗所へはいって行った。
食事がすむと、西貝と乾は、ひと足さきに帰る、と、いいだした。もう、大ぶいい機嫌で仲よく肩をならべながら出て行った。
しばらくの後、葵は、臆病そうに口をきった。
「送ってちょうだい。……ひとりでは、うち、恐ろし……」
久我は、それに返事せずに、笑いながら、
「さっきの司法主任の話、あれ、出まかせです。乾老が、つまらないことをいつまでも喋言ってるから、ちょっと黙らして見たんです。……これで、なかなかひとが悪いところもあるでしょう。……(すこし真面目な顔になって)葵さん、あなたはもう喚びだされることはありませんから、心配しなくても大丈夫です」
と、いうと、上衣の内ポケットから、金色の紋章のはいった警察手帳をとりだすと、はじめの頁をめくって見せた。〈久我千秋〉と、彼の名が書いてあった。
「安心してください。……私がこう言うんだから……」
そして、やさしく葵の手をとった。
どうしたというのか。……葵は急に蒼ざめて、低く首をたれてしまった。久我の掌のなかで、葵の小さな手が、ぴくぴくと動いた。早くそこから逃げだしたいという風に。
4
事実は小説よりも奇なり、ということは、たしかに有り得る。しかし、それが奇にすぎ、すこし通常の域をこえていると、もう一般からは信じられなくなってしまう。小説の場合と全く同
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