て見ると、加害者はこの一座のなかに、いるのかも知れないですね。……私かも知れない。いや、殊によったら、乾老それ自身かも……」
 久我が、まだ言い終らないうちに、乾が、すっくと立ちあがった。いまにも投げつけるように、ジョッキの把手を握りしめ、眼をくゎっと見ひらいて、久我を睨みつけながら、
「なんだと! ……もう一ぺんいってみろ、畜生!」
 と叫んだ。洲崎署の廊下で見た、あの悪尉の面になっていた。
 西貝は、これさ、これさと芝居がかりに手をふりながら、乾に、
「大きな声はよしたまえ。……みなきいてるじゃないか」
 乾は、久我を睨みすえて、もう一度、
「畜生!」と叫ぶと、急に、崩れるように椅子の中へ落ちこみ、両手で顔を蔽って、啜り泣きはじめた。しゃくりあげて泣くのだった。
 西貝は、手がつけられない、という風に、頭を掻きながら、
「ちぇっ、泣き出しちゃいかんなあ。……(卓ごしに手をのばして、乾の肩を叩きながら)乾老……。これさ、乾老。君の酒もあまりよくないねえ。……泣くほどのことあ、ありゃしない、冗談じゃないか。……(そして、久我のほうへ片眼をつぶって見せた)久我氏、貴殿もすこし慎しまっせえ。老人にからかうなんざ、よくないよ」
 久我は、てれくさそうに笑いながら、乾に、
「かんべんしてください。冗談なんですから」
 乾は、ようやく顔をあげると、涙で濡れた眼で、うらめしそうに久我を見ながら、
「いけないよ。冗談にしても、あんなことをいうのは。……とうとうあたしを、泣かせてしまって……」
 そして、掌で眼を拭った。もう泣いていなかった。
 久我が、いった。
「つい、なんでもなく言ったんですが……。かんべんしてください。……いまのは、私の冗談ですが、……でも、司法主任がそういったというのは嘘じゃありません。……こんなことを言ったら、また気を悪くなさるかも知れませんが、……現に、あそこに、……(そう言いながら、卓の上へ低く顔を伏せると、ささやくような声で、葵にいった)葵さん、そのまま、しずかに顔をあげてください。(葵は顔をあげて怯えるような眼つきをした)……いや、なにも恐いことじゃありません。……奥から三番目の柱の横の……椰子の鉢植のそばの卓に、男が一人坐ってるでしょう。……見えましたか? ……(葵がうなずいた)そう。……あれは警察の人間です」
 葵は眉をひそめながら、ほとんどき
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