物凝固の世界から、一躍にして、虚にして無なる境地に直入する。あかにし[#「あかにし」に傍点]であればあるほど、反動も大きければ爆発も異常だ。……ご承知の通り、あの前夜、絲満氏は見知らぬ女に大盤振舞をし、自分もしたたかに飲んだといいますが、絲満氏を知っている連中の話では、そんなことは何十年来なかったことだそうです。……これなどはじつに、その辺の消息を雄弁に物語っているじゃありませんか。……どうです。それでもまだご異存がありますか。……(急に調子をかえて)だからさ、どの位あったか知らないが、当然手にはいっていたものを、むざむざ横あいからひっ攫われたかと思うと、あたしあそれが残念で、いても立ってもいられないんだ。……(卓の上へ両手をついて、三人のほうへ身体をのりだすと)あたしあ、巳年生れでね。これで、嫉妬心もつよければ、また、ずいぶん執念も深い性なんだから、こんな目に逢わされてだまって引っこんでるわけはない。……あたしの手で、いまにきっと、そいつをとっちめてやるつもりなんだ。……なアに、どうせ長いあとのこっちゃアありゃしない。……いまに見てろい、どんな目を見るか! ぬすっとめ!」
 そういうと、急にぐったりと、卓の上へ頬杖をついて、うわごとのように、なにかぶつぶつ[#「ぶつぶつ」に傍点]つぶやきはじめた。酔態としても、これはかなり異様なものだった。
 西貝が、久我に、ささやいた。
「恐ろしい精神状態だ」
 久我は、ささやきかえす。
「むしろ、奇抜ですね」
 西貝がいった。
「……乾老。……性格のちがいというのはえらいものだね。……小生は寅年生れだが、遺産のことなんか、とうに忘れていたよ」
「忘れるのは、あんたの勝手だ」
 乾が、うなるように言いかえした。
「ま、立腹したもうな。……しかしながら、絲満の加害者が、あんたの血相を見たら、たいてい竦《すく》みあがるだろう。なにしろ、凄かったぜ」
 乾は、ふふん、とせせら笑っただけで相手にならなかった。
 久我がにやにや笑いながら、
「同感ですね。……私はついさっき取調室から出てきたばかりですが、帰りがけに、司法主任がこういってました。……だいぶご機嫌でね、……君、加害者はやっぱり、あの朝〈那覇〉へきた五人のうちの一人なんだ。見てたまえ、誰れだか明日になればわかるから、って……。(いかにも面白そうに、三人の顔をながめながら)……し
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