言った。
「アパートまでお送り申しの、ていよく戸口で断わられの、赤電を追っかけてスッテンコロリンの……やだナ」
みなが、どっと笑う、西貝がいった。
「ひとごろし[#「ひとごろし」に傍点]は午前三時だ」
「でもね、葵は朝まで部屋にいたんですよ。……葵が帰ると、かならず差配の娘が起きて玄関をしめることになっている。……あの晩も、玄関をしめてから、五分ばかり立ち話をして、それから二人が寝にいった」
「窓に非常梯子がついている」
那須は、やりきれない、という風に苦笑しながら、
「そいつあ下らない。……若い女が、夜半に非常梯子をおりて、新宿から深川までゆき、人を殺してきて、またそこから部屋へはいる。……これを、だれの眼にもかからずに、始めからしまいまでやってのける。……やってやれないことはなさそうだ……が、まず、ほとんど絶対に不可能だ……。可能内に於ける不可能の部分……。日常生活内における虚数《イマジナル・ナンバー》だ。……安全率が微小すぎて、実用に耐えんのですな。嘘だと思ったら実験してごらんなさい。あなたの窓にも非常梯子がついてるでしょう」
「できる」
「午前二時頃……」
「そうだ」
「おやおや、実験ずみとは知らなかった」
「実験したとは言ってやしない。しかし、実験して見せてもいい。これはね、一人の人間を二つに割って使えばわけなくできる。……不可能内に於ける可能の部分さ……たとえば……」
横あいから、一人が、頓狂な声で口をはさんだ。
「それはそうと、西貝さん。……あんたこそ、あの晩どこにいたんです」
きっ、とそっちへふりかえると、厳しく眉をひそめながら、
「なんで、そんなことをきく」
「なんで、ということはないが、あの晩、僕あ〈柳〉で金を足らなくして、二時頃あんたんとこを起したんです。……あんたがいないんで僕あ弱っちゃった。……あそこはあんまり馴染じゃ……」
「銀座にいた」
斬りつけるような返事だった。
壁の大時計が、三時をうつ。
那須が立ちあがって、欠伸をしながら、
「お茶を飲みに出ませんか、西貝さん。そこで、つづきをやりましょう」
「もう、やめだ。かまわず行ってくれ。俺はここで久我を待ってる」
すると、ダニ忠が、いった。
「久我、ってあの若い男、……ありゃあ、特高の第二係じゃないか。……僕あたしかに本庁で見かけたことがある」
狼狽したような眼つきで、相
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