風がふきこんできた。葵はうとうとしかけた……
 廊下のはしに久我があらわれた。大股で近づいてくると、おしだすような声で、
「やあ……」
 と、いった。唇がぴくぴくと動いた。咄嗟に、なにもいえない風だった。
 葵は、とろんとした眼を半分ひらいて久我を見る。いっぺんに眼がさめた。
「ひどかったでしょう」
「なんでもなかった。……もうきょうは帰ってもいいんですって」
 わざと投げやりな調子で、いった。こんな風にでも言わなければ、わっ、と泣きだしてしまいそうだった。
 久我は、撫でさするような眼つきで葵を眺めていたが、急に葵の手の甲を指すと、驚いたような顔で、たずねた。
「どうしたんです、これは」
「……虫づくし、よ。……蚤、蚊、虱、南京虫。……辛かってんわ」
 そして、微笑してみせた。……うまく笑えなかった。
 久我は、すこし険しい顔になって、
「それは、ひどい。……それで、どうだっていうんです、警察じゃ」
「虫も殺さないような顔で大それたことをしやがって……」
「ひどいことをいう!」
「慾ばりのむくいよ」
 久我は、葵のそばへ並んで坐りながら、
「……もっともあなたばかりじゃありません。あの朝、〈那覇〉に集った連中は、みんなよばれているんですよ、新聞記者の西貝君まで。……あっちの部屋には、警視庁の連中ががんばっていて、いま、〈那覇〉の男と、乾と、古田を調べています」
「あなたも」
「ええ、もちろん、僕も。……だが、あなたが案外元気なんで安心しました。……心配してたんですよ、本当に、ひどいことをされやしないかと思って。……それに、この暑さだし……。せめて、なにか冷たいものでもと思って、いろいろ奔走してみたんです。でも、警察では、迂散くさそうな顔をするばかりで、なんといっても受けつけてくれないんです。かんべんしてください、ほっておいたわけじゃないんだから」
 葵は、もうひとたまりもなかった。掌で顔を蔽うと、身体をふるわして泣きだした。
 久我も、うるんだような眼になって、
「疲れてるんだ。はやく帰っておやすみなさい。……送っていってあげたいけど、僕ももうすぐ呼び込まれるでしょうし……」
 そういって、葵にハンカチを渡した。すぐ泣きやんだ。きれいに眼を拭うと、
「ごめんなさい。……いいえ、いいのよ。……それより、うち、ここで待ってます、あなたがすむまで……」
「いや、そんなこ
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