をうけた。参考人としてではなく、殺人嫌疑で訊問されていたのだった。警察では殺人の前夜に〈那覇〉へ現れた女も、古田子之作へ遺産相続通知の電話をかけた女も葵だときめてかかっているのだった。
〈那覇〉の男が、どうもこの女ではありません、と証言し、葵にもたしかな不在証明があったのでこのほうの嫌疑だけはまぬかれたが、電話のほうは、古田が、こんなによく響く声ではなかった、と、明瞭に申し立てているのに、どうしても納得しないのだった。最後には、二人で共謀してやったんだろうなどと言い出した。こうなれば、弁明するだけ無駄のようなものだった。
殊に、葵には、過去の経歴のうちに、明白にしたくない部分があったので、いきおい、答弁は曖昧にならざるを得なかった。係官は、そこへのしかかってきた。
葵は、電話をかけたのは私ではない、というほか、どう言う術も知らなかった。しまいには、言うことがなくなって黙ってしまう。すると、いままで温顔をもって接していた司法主任は、急に眼をいからせ、顔じゅうを口にして、なめるな、この女《あま》と、大喝するのだった。
二日目の昼には、強制的に検黴された。もし病毒でももっていたら、その点で有無をいわせないつもりらしかった。警察医が指にゴムのサックをはめて、葵の肉体を調べた。
結果は思いのほかよかった。警察医は妙な笑いかたをしながら、君、あいつは処女《ユングフラウ》だぜ、といった。これが係官の心証をよくした。
できるなら、葵はなにもかも告白して、ここから逃げだしたいと思った。こころがなげやりで、この世の幸福などは、すっかりあきらめていた今迄の葵ならば、たぶん、そうしたであろう。しかしいまは違う。久我の優しい眼《まな》ざしを透して、その奥に、おぼろげながら、幸福な自分の未来を見いだしているのだった。二十三年の半生を通じて、いま、ようやく葵は幸福になろうとしている。この夢だけは失いたくないのだった。
検黴室の鉄の寝台にねかされたとき、葵は憤りと悲しみで心がさし貫かれるような気がした。このときばかりは、さすがになにもかも告白しようと思った。それさえすれば、この恥辱は受けないですむのだ。だが、それをいえば、葵はもう終生久我に逢うことが出来ないであろう。久我への劇しい愛情が、この屈辱に甘んじさせた。涙があふれてきて、止めようがなかった。
乏しい木立の梢をわたって、涼しい
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