とをしないで、もういらっしゃい。疲れてないわけはないんだから。……でももしよかったら、今晩……、(すこし調子づいて)じつはね、さっき向うで相談したんですが、今晩、〈絲満南風太郎の参考人の会〉をやろうってことになったんです。……新聞記者の西貝君、乾老人、古田君、それから、僕……。あなたは疲れてるでしょうから、お誘いはしないけど……」
このまま、ここへ倒れてしまうのではないのか。……葵は気が遠くなりかけている。しかし、今晩久我に逢えるなら……。葵は、しずかに、いった。
「こんなの……三十分も眠ったら……なおるでしょう……。今晩……どこで?」
「七時。新宿の〈モン・ナムウル〉」
葵が立ちあがる。
「お伺いします。じゃ、さよなら」
「じゃ、七時に」
廊下のはしで、いちどふりかえると、夢の醒めきらないひとのような足どりで、そろそろと右のほうへ曲っていってしまった。
久我は、そのほうへ手を振った。時計を出して眺め、それから、落ち着かなそうに、コツコツと廊下を歩きはじめた。
間もなく、下の扉があいて、乾が出てきた。紗の羽織の裾をくるりとまくって、久我のまえに立ちはだかると、
「やっとすみましたよ。……馬鹿な念のいれようだ、下らん。……それはそうと、せっかくの会合だが、古田は来られんでしょう。上衣に血がついてるのが見つかった。……さもあるべきはずさ。見るからに悪相だからねえ、あいつは」
そういうと、唇を歪めて、能面の悪尉のような顔をした。久我の背すじがぞっとした。
返事も出来ないでいると、乾はゆっくり煙草に火をつけながら空嘯《そらうそぶ》くようにして、
「この事件もこれで一段落か、おや、おや。……さりとは呆気なかったね。……あたしは公判がすきで、よく傍聴にゆきますが、刑事事件は面白いですな。……ちょいと関りあって見たいようなのもありますからねえ。……今度のなんざ、いささか関係が濃厚で、大いに楽しんでいたんですが、こう呆気なく幕になっちゃ、仕様がない。……それにつけても、いったい、日本の警察は迂濶ですよ。市民にもっと協力を求めなくちゃいけない。……密告制度を設けて、大いに投書を奨励するようにすれば、現在よりはかならず能率があがるようになりましょう。……
(にやりと笑って)もっとも、最近は、すこしよくなったが……。(と、いって、急に声をひそめると)実はね、古田子之作を密告
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