は始めてでしょう。……私はひとを待っているんですが、どうもたいへんなところ……」
「始めてです」
にべもない返事だった。酒鼻はいまいましそうに、男《ボーイ》のほうへ向きなおると、
「オイ、ときに、ここのマダムはどうした」
と声をかけた。男《ボーイ》はせせら笑って、
「マダム? ……大将ならまだ二階で寝てまさ。……昨夜すこしウタイすぎたんでねえ」
「喧嘩か」
「なあに、……昨夜妙な女がひとり飛びこんできてねえ……なにしろ大将はスキだから、いきなりそいつとツルんでだいぶんひっかぶったらしいんでさ。……もっとも、あっしゃ昨日は昼番、その時はいなかったが、いっしょう浴びたテアイのはなしでは、なにしろ女《テキ》あ大した豪傑で、……お相手しましょう、てな調子で割りこんでくると、あとはもう、奴、酌げ酌げ、さ。……さすがの大将も、しまいにはオッペケペになって、とうとう兜をぬいじまったんだそうだ。……あっしゃ、すらっとした後ろ姿を拝見しただけだったが、連中の話じゃ、二十三四のモダン・ガールで、こいつがどうもやけにいい女だったそうでさア。……なんでも洲崎のバアの女給だってえこったが、いってえどういうんだろうねえ、その女……」
この時、また扉があいて、すらりと背の高い、二十二三の娘がはいってきた。
蓮色の服に、黒いフェルトの帽子をかぶった、明るい顔つきの、いかにも美しい娘だった。酒場のなかを見まわすと、青年のとなりの椅子にぎこちなく掛けて、ものおじしたようにうつむいてしまった。
ポート・ワインを酌いで、また番台へ戻って来ると、男《ボーイ》は新聞をとりあげて、
「おや、また人殺しだ」と、とってつけたように言った。
「……えー、薪割りようのものにて、……滅多打ちにしたものらしく、六畳の血の海の中で、……よく流行《はや》るねえ、このごろは。……こないだも野銭場の砂利仲仕が、小名木川の富士紡の前で、どてっぱらを割られて倒れていたが、……どうもひでえもんだねえ、大腸《ひゃくひろ》をすっかりひろげちゃって、……苦しいのか、せつねえのか、そいつを自分の両手で、手繰りだすようにして死んでいるんでさ。いやになっちゃったア、あっしあ」
あちらこちらの工場のサイレンが鳴り出す。すると、それが合図のように、さっきの菜葉服が戻って来た。つかつかと番台の前へ行って、
「なに、だれも来ねえ? ……そんな筈
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