野郎だとは思わなかった。それがあたしの不覚さ。……そうと知ったら、仁義などをケッつけずに、サッサと逃《と》ばしてやるんだった。……一生一代の恋をして、いのちにもかえがたい恋人を、ちょっと油断したばっかりに、みすみす死なせてしまったのか。……もう、この世では逢えないのか。……うらめしい、残念だ。(こらえかねたように声をあげて泣きだした。やがてふっと泣きやんだ眼をぬぐうと)おい、くどいようだが、よくやってくれたねえ。……どうして九両三分二朱だ。きっと祟って見せるよ。……あたしのいのちをカセにして、どうでもバラスはずはあるまいと、多寡をくくってるのかも知れないが、今日只今、もう命なんか惜しくない。これから本庁へ駆けこんで、底をさらって申しあげ、お前らの首へ細引を喰いこましてやるからそう思え。……なんだ、妙な面をするな、こんなトボケタ小娘だから、なにも知るまいと思って、さんざ出汁《だし》がらにしゃぶりゃがったが、事件《コト》のありようは元すえまで、なにもかにも知ってるんだぞ。……おい、ひとつ、ここで復習《サラ》って見せようか。……大正七年の六月に、北海道の北の端れで、稚内《わっかない》築港の名代の大難工事が始まった。すると絲満|南風《はえ》太郎は、自分の郷里の絲満から、二百人あまりの人間をだましてつれてきて、これを道庁の請負の大林組へ一人八十円パで売り飛ばした。売られた方はたまらない。なにしろ名代の監獄部屋だ。気候が悪い仕事が荒い、そいつが出来あがったときに生残った人間は二百人のうちたった十八人。……あたしの父親もだまされてうられて、そこで生命をおとした一人だが……こうして貯めこんだ金が三万円ばかり。怖くてたまらないから、銀行にも預けずに、自分の部屋へ金庫まがいの支那櫃を据えつけ、ひとが見たら蛙になれ、と隠しておいた。これを知ってるのは絲満と、当時の情婦、そこにいるおハナさんの二人っきり。ハナさんもながい間ねらっていたが、用心堅固で手がだせない。そればかりか、碌に小遣いもくれないから、とうとう喧嘩わかれになってしまい、もだもだしながら、洲崎の〈金城〉ってバアで稼いでいるうち、同気相呼ぶで知合ったのが、この乾君。……そこでいろいろ考えたすえ、尼ヶ崎でダンサーをしていたあたしを呼びよせ、お前のおやじの敵は絲満だ、おやじの仇を討ちたくないか。討つ気はないか。その気があるならかなら
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