「なにも話さなかったの、久我のことは」
「金を借りに来たといった。それだけだ」
鶴は乾の袖を掴んでゆすぶりながら、
「なにも言わなかったのね、本当ね?」
「下手なことをいうと係りあいになるからな。だれがそんなたわけたことをするものか。(チラリと鶴の顔を見あげて)だが、なんでそんなことをきく」
鶴は、急に涙ぐむような眼つきになって、
「なんといったって、ほんとは久我が殺ったんじゃないでしょう。だから、久我を密告《サシ》て苦しめることだけはかんべんしてちょうだい……それを、お願いに来たのよ」
乾は竹箆の先に飯粒をためたまま、飽っ気にとられたような顔で鶴を見つめていた。
「正直のところあんたが、どうしても久我を送りこもうというのは、そうして葵を手にいれるつもりもあるんでしょう。それならば、ほかにいくらだって方法があるじゃないの。密告《サス》のだけはゆるしてやってちょうだい、お願いだから」
「どうしたというんだ、藪から棒に。鶴《チル》」
「わけ? わけはかんたんよ。……あたし、久我に惚れちゃったんだ(そう言って椅子のうしろに頭を凭らせると、)もうどうにも手に負えないんだ。この頃は一日に十ぺん位い泣きたくなる」
「驚いたなあ」
そういって、ふふんと笑った。チルは肩をぴくんとさせて、
「驚いたよ、あたしも。……よく考えて見たら、はじめて逢ったときから惚れてたんだ。……二人の間を割こうと思ってれいの非常梯子の手紙を送りつけたりしたんだから、あたしももろい[#「もろい」に傍点]ねえ。こうまでたわけ[#「たわけ」に傍点]になるものか。……驚いたてのはこのことなんです。……もう、首ったけなんだ。いのちまでも、さ。……このごろは朝から晩まであとをくっついて歩いてるんだよ」
「ほう、なんのために」
キッと乾の眼を見かえして、
「離れられないのさ。それにはちがいなかろう。が、ありていいえば、じつは保護してるつもりなのさ。一旦緩急があったらなんとかして切りぬけさせるつもりなんだ。……もう、だいぶ危くなってきてるからねえ、ご存じの通り」
乾はキラリと眼を光らせて、
「おい逃がすつもりか」
急に唇をへの字に曲げると鶴は子供の様にすすり泣きはじめた。
「……逃がしたい。逃がしたい。……でもあんたをさしおいて勝手なことはしない。あんたに抗《さか》らっても無駄だってことはよく知ってる。……
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