だから、こうして降参してるんじゃないか。……助けてやってくれとたのんでるんだ。……密告なら密告でいいから、あす一日だけ待ってちょうだい。……お願いよ、お願いよ。そのかわり、あんたのいうことはなんでもきく……」
乾はいかにも合点がいったという風に、うるさく首をふりながら、いった。
「そうか、よく判った。生かすの助けるのという器用な芸当は出来ないが、それほどにいうなら、密告《サス》ことだけは待ってやる。(手荒く鶴をひきよせると)待ってやったら、ほんとうにいう事をきくか?」
眼をとじると、鶴がかすかにうなずいた。
濃い霧がおりていた。
もう夜中ちかかった。家も街路樹もあいまいな乳色のなかに沈み、風がふくたびに海藻《かいそう》のようにゆらめくのだった。新宿の裏町を、号外配達が鈴を鳴らしながら泳ぎまわっていた。
霧のなかから、久我と葵が現れてきた。瓦斯会社の前の街灯の柱に号外がヒラヒラしてるのを見ると、久我がそのほうへ寄って行った。号外の湿った面には、こんな風に刷られてあった。
〈逃走中の黒色ギャング、大阪第八銀行襲撃事件の主犯|中村遼一《なかむらりょういち》(三六)は今夜十時半、新宿三丁目を徘徊中を発見され、正当防衛によって射殺された〉
久我は首をたれて、ちょっと眼をとじると、しずかにそこを離れ、葵と肩を並べて甲州街道へはいって行った。
笹塚の車庫の近くまでくると、葵は急に足をとめて、だれかにあとを尾《つ》けられているような気がする、といいだした。久我がふりかえって見ると、半町ほどうしろに四人の酔漢が腕を組み合ってなにか大声でわめきながらよろめき歩いていた。
「あとを尾けられるはずはないじゃないか。心配しなくともいい。あれは酔っぱらいだ」
二人は代田橋から七軒町を通り下高井戸のそばまでやってきた。もう三時ちかくだった。そこの町角で立ちどまると、葵が弱々しい声で、疲れた、といった。
久我は道路に立って、いま来たほうへ耳をすました。虫の声のほか人の気はいらしいものは感じられなかった。
「じゃ、あの家のかげで休もう」
二人は道路から右へ折れこみ、森山牧場の納屋の前を通って中庭のようになった狭い草地へはいって行った。白い花をつけた百日紅《さるすべり》の木があって、それが霧の中で匂っていた。
二人はその下へ坐った。
「ひどい露だ」
「でも、いいところだわ。ひと
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