「その着物《トビ》はね、枝川町の溜堀を浚うとあがってくるんです」
「ど、どこの溜堀……、どうしてそんなことを知ってる」
「市の芥焼場の向いに、曲辰の材木置場がありますねえ……そこの溜堀です。尤もあたしもまたぎきなんだから、くわしいことは那須って新聞記者にきいてごらんなさい」
「那須? よく知ってるよ。……そうか、これあ、意外《モロ》かった。や、どうも……」セカセカと立ちかけた。
「おや、もうお帰りですか」
男はまた中腰になって、「なんか、まだ、あるのか」
ジロリと見あげると、「久我ってのはね、この間の大阪の銀行ギャングの共犯なんですぜ。正体は岩船重吉という、そのほうの大物なんだそうです。……ご存知なかったんですか」
ピクッと膝を動かした。さり気ないようすをしながら、
「へえそりゃ、本当かね」
「そのほうは見事に失敗《しくじ》った。それで今度の絲満事件も、ほら、なんていうんだ、れいの……資金獲得のためにやったんだろうというんです。あれだけの大仕事をしておいて、ピイピイしてるてえのも、これでよく筋が通るんです。……しかし、くわしいことは知りませんよ。どうせ、これもまたぎきなんだから……。なんでも那須がとっちめて、ギャングのほうだけは白状させたということですが……。それでね、久我と中村はね、いま大久保の射的場にいるんですぜ。……あたしがこの眼で見たんです」
男はもういても立ってもいられない風だった。掴みこわしそうに帽子を握りしめて、
「そうときいたら、こうしちゃいられない……いずれ……」
乾は落ちつきはらって、
「どうするんです。すぐ捕物にかかるんですか。気をおつけなさいよ。二人とも拳銃《ハジキ》を持ってますぜ。下手に生捕にしようなどと思ったら、えらい目に逢うよ。なにしろ、あいつは名人だそうだから……」
さすがに苦笑して、
「いや有難う。……よく判ってるよ。とにかく、俺あ、急ぐから、お礼はいずれ……」
その辺の古壺を蹴かえしながら、ひどくあわてたようすで出て行った。乾はチラとそのあとを見送ると、竹箆をとりあげて、ゆっくりと続飯《そくい》を練りはじめた。
鶴がはいってきた。乾のそばへ並んで掛けると、
「いま出て行ったのは本庁の刑事ね。……なんの用で来たの。……どんな話をしたの」
「べつに大したことじゃない。おれの身元がどうのこうのって……」
眉をよせて、
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