もりなんです。そのひとたちは喰べることのために時間をとられたりひどく骨を折ったりしてはいけないのね。一日にひとりだけお客をとってあとの時間は全部勉強のために使うようにするがいいんです。……いやなら無理におすすめしないけど、生きてゆくのに偽善なんか何んの役にも立たない、ってことを、いちど、よく考えて見てちょうだい」
窓のない写真屋の暗室のような部屋だった。桃色の覆いをかけた枕電灯《ベッドランプ》がなまめかしく寝台を浮きあがらせていた。葵が部屋の真ん中に立っていた。もう、悲しくも恐ろしくもなかった。生きるためには肉体の汚濁ぐらいはもののかずではない。まして、僅かな金のあるなしが、久我の運命を決定しようとしている。それを手にいれるためなら、どんなことでも恐れてはいられないのだ。こういう場合、貞潔をまもるとは、そもそもなんの意味をなすものであろう……
気どったようすで扉があいて、ニッカーを穿いた面皰《にきび》だらけの青二才がはいってきた。点火器《ライター》をだして金口に火をつけると、
「よう、どうしたい、その後」と、いった。
10[#「10」は縦中横]
乾と向きあった眼つきの鋭い男が、ものを言うたびにいちいち顎をしゃくった。
「信州たって広いや。……信州のどこだ」
「存じませんです」
男は、むっとしたようすで、
「なんだ、存じません、存じません。……下手に庇いだですると、気の毒だが君もひっかけるぜ[#「ひっかけるぜ」に傍点]。……言え、信州のどこだ」
乾は膝に手をおいてうつむいていたが、やがて、顔をあげると、
「申しあげます。……が、そのまえに、ひとつ伺いたいことがございます。……久我が殺ったというのはたしかなんですか」
「それをきいてどうする」
「それを伺ってからでないと、あたしは寝ざめの悪いことになります。ひと月か二月の浅いつきあいだが、友人は友人。充分な証拠があったというのなら止むを得ませんが、そうでないのなら、たとえこのまま拘引《オテアテ》をうけても、何事も申しあげかねるんでございます。……しかし、久我が殺ったということなら、知っていることは洗いざらい申しあげるつもりです。……ご承知の通りあの絲満の財産というものは、どの位あったか知りませんが、あんなことさえなければ当然あたしの手へはいっていたはずなんだ。それをむざむざと横合いから攫われたと思
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