れなかった。肉体にのこっているすこしばかりの痛みのほうが、なにか切実に感じられるのだった。静かな夕暮れだった。
 部屋のなかに人のけはいがする。はっとして眼をあけて見ると、戸口に朱砂ハナが立っていた。紫紺の羅《うすもの》に白博多の帯という、ひどく小粋ななりをしていた。戸口に立ったまま葵のほうを眺めていたが、すらすらと寄ってくると、
「おや、どうなすったの。気分でも悪いんですか」
 ひとがちがうような優しい声でいいながらじろじろと葵の身体を見まわした。葵はなにもかも見すかされるような気がして、思わず身体を起した。
「なんでもないの。すこし疲れたから……」
「そう。……でも、たいへんな顔色よ。お冷でもあげましょう」
 といって、立ってゆくと、そこここと仔細らしく流し元をのぞきこんでから、コップに水を汲んで戻ってきた。葵により添うようにしてかけると、しみじみとした調子で、
「ねえ、葵さん、あんた困っているんでしょう。……あたいによく判るのよ。あんたたちこの二三日なにも喰べていないのね」
 どうしてそんなことがわかるのか。葵はおどろいて眼をあげた。ハナは大袈裟なためいきをついて、
「……苦しむのはいいけれど、すこし悲壮《パセチック》ね。どうしようとそれはあんたの勝手でしょうが、なんにしても、感情だけで生活しようというのは、すこし贅沢すぎやしないかしら。……あんたひとりなら、どんな甘えかたをしてもいいでしょうし、生きてる気がないんならそれでも結構。……でも、どうしても生きて行こうというんなら、もっと切実な考え方をなさい。感情だの、道徳だの、習慣だの……そんな甘いことじゃだめ。……悲壮なら悲壮でいいから、もうすこし徹底させて見たらどう? ……(葵の顔をのぞきこむようにして)ねえ葵さん、あんたお客をとって見ない? ……そうよ、もちろんあいつらはけだものよ。否《ノオ》、けだものどころか、現象にすぎないのよ。……俄雨にあってずぶ濡れになったって、それがあたいたちの罪でないように、あいつらが非人間であればあるほど、どんな接触の仕方をしたって罪でも穢れでもない。あたいたちが受ける影響は、要するに、知覚だけのことでしかないのよ。……こんな商売をしているけど、あたいは虚栄や慾ばりの手助けをした覚えはなくてよ。すぐれた才能をもちながら、生活のために落伍してゆく同性に、合理的な道をあけてあげるつ
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