に何があるかという幼稚な議論をしたことがあったな。……君は虚無の向うに虚無の深淵だけだ、といった。僕は虚無の向うに愛がある、といった覚えがある。……覚えているか」
 久我は山瀬の顔を見つめながら、激したような声で、
「よく覚えている。中村君、僕ははじめ……」
 山瀬は手をあげて遮りながら、
「君の恋愛の告白なんかきいても仕様がない。それは、よせ。……それで、穂高までどうしてゆくか。そんな切迫しているのに東京を抜けだす自信があるか」
 久我が昂然と言いはなった。
「ある。……自信ではない。意志だ。……それに、僕はいま頓悟《イリルミナシオン》を得た。旅費にこだわっているから動けないのだ。歩くつもりなら融通無碍だ。僕は歩いてゆく。……どこまでも歩いてゆく」
 山瀬は憐れむように、ちらりと久我の顔を見かえすと、うつむいて黙然と煙草を喫いだした。霧がおりてきた。

 葵が憔悴した様子で自分の部屋へ帰ってきた。着物もぬがずに寝床の上へ横になった。壁のうえで夕映えが少しずつ薄れかけていた……
 葵が乾の家へゆくと、乾は二階の部屋で丹念に小刀を使いながら花台の脚を修繕していた。山瀬という軍人のような見かけの男と久我とが逢っているのを知らしてくれたら、旅費の五十円を貸そうという約束だったので、いそいで知らせに行ったのだった。いま、二人で大久保の射的場のほうへ行った、と告げると、乾はいつものように額をにらむようにしてなにか考えていたが、やがてニヤニヤ笑いながら葵のほうへ近よってきた。その笑いに、なにかぞっとするようないやらしさがあった。いつもとすこしようすがちがっていた。
 葵は力のかぎり反抗した。が、突然強く寝台に投げつけられて軽い眩暈《めまい》をおこしているうちに、もう身動きが出来ないようになっていた。乾の身体を押しのけようともがいたが、手が萎えたようになって、てんで力がはいらないのだった。ゆるしてください、それだけは、ゆるしてください、と譫言《うわごと》のように喘えぎつづけるばかりだった。

 夕食の仕度がはじまったのだろう。ほうぼうの部屋からしきりに水の流れる音がきこえてきた。葵は眼をとじた。
〈世界中の水を使っても、もう自分の穢れを洗い浄めることはできない……〉
 だが、穢れるというのはいったいなんのことだろう。よく考えてみたいと思うのだが、頭のなかが空虚になってなにも考えら
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