転回して見ると、危険はそれらの条件にあるのではなくて、どうしても橋を渡らなければならないという観念から離れられないところにあるのだ。服をぬいでそこの溜堀へ沈めた。そろそろと堀を泳ぎ渡って、弁天町の貸船屋の近所へあがった。そこに腐ったような袢纒がかけ流してある。麻裏もある。そいつを引っかけて突っ立っていたらタキシが寄ってきた。ホテルへ帰って見ると、予期したようにみながまだ騒いでいて……」
山瀬が、むっつりと口をはさんだ。
「しかし、そんなことを俺がきいても仕様がないな。……いったい、君が話したいということはなんだ」
ちょっと間をおいて、
「じつは絲満をやったのは僕の妻《フラウ》なんだ」
山瀬は、まるで聞いていなかったように、冷然と空を眺めていた。久我はすこし早口になって、
「つぎの朝、巡査といっしょに二階へ上って行った。ふと見ると、血だまりのなかに女の服の釦が落ちている。しまったと思った。隙を見て拾ってポケットへ入れた。しかし、しらべて見ると、僕の服の地色とちがう。……葵の服にそれとよく似た色のものがある。そっとあてがって見たら、まぎれもなくその服から落ちたものだということがわかった。しかも葵はその夜一時頃、非常梯子をつたって自分のアパートから抜けだしているんだ。……現象的に見て、葵がやったと思うほかはないのだ」
「うん、わかった。それで、なにを言うつもりか」
「……衣裳屋へ服を借りに行った女が、いま盛んに追求されている。ホテルの婢《マグド》はまだ何も言ってないらしいが、いずれやり切れなくなって自首するだろう。……僕が捕えられるのはもう時間の問題だ。僕は殺っていない。だからこそ、葵のために僕は捕ってはならないのだ。どんなことがあっても二人で逃げとおすつもりだ。……僕の友人が穂高にいる。そこまで行けば、多少まとまった金が手にはいる。それで小樽までゆく。小樽から青島へ行く貨物船の定期航路があるはずだからそれで青島までゆく。あとはなんとかなるつもりだ」
山瀬は起きあがって草の上にあぐらをかくと、微笑をうかべながら、
「君がなにを言いたいのか、よく判ったよ。……俺に言わせると、危険なのは君の情況《シチュエシヨン》でなくて君が本気で細君《フラウ》を愛しはじめたことなんだ。君がひとりで逃げようとするなら、それは実に易々たる問題なんだからな。……むかし、虚無《ニヒル》の向う
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