見せてよ。あたしの過去さえ告白する気なら、びくびくすることはいらないの。……そうしたらもう、あなたともそれで……」
 久我はとりあわずに、ゆっくり扉をしめて出て行った。

 カーテンをおし開けて事務室へはいってゆくと、薄暗い隅の長椅子に乾と朱砂ハナが並んで、なにかこそこそと話をしていた。
 葵を見ると、乾は、ついと立ち上って、あざとい愛想笑いをしながら、
「お、葵嬢。……いまお部屋へ推参しようと思っていたところです。その後、ますますご濃厚の趣で、まことに大慶至極です」
 ハナも長椅子の上で腰を浮かせながら、
「……すこし話していらっしゃいまし。……それともなにか御用でしたか」と、いった。用事がなかったら早く出てゆけ、といわんばかりであった。
 葵はそれどころではなかった。頁を繰るのももどかしいようにして、ようやく特高課の番号をさがし出すと、久我千秋を出してくれ、とたのんだ。すると、そんな人間はこっちにいない、ほかの課のまちがいではないか。庶務課へかけてきいて見るがいい、という返事だった。庶務課へかけると、本庁にはそんな名のひとはいない。ほかの署へたずねて見なさい、といって、電話を切ってしまった。
 葵は電話室の壁に凭れてぼんやりと立っていた。ほかの署などに聞き合わす必要はない。久我は毎朝、警視庁へゆくといって出てゆくのだ。久我は警官ではない。……いままであたしを欺していたのだ。しかし、いったいなんのために。……頭が麻痺したようになって、なにひとつ満足な答を得られなかった。
 電話室のカーテンをまくって、乾が首をさしいれた。
「……葵嬢、そんなところでなにしてる。……おや、ひどく蒼い顔をしてるが、気分でも悪いんじゃないのかね。……まあ、こっちへ、こちらへ」
 と、いいながら、葵の手をとって長椅子に掛けさせた。ハナは、すっと立ちあがると、ものも言わずに出て行ってしまった。乾はそのほうをチラリと見送ってから、葵のそばへすり寄るようにして、
「ちょっといないたって、そんなにしょげるテはないでしょう。……どうも、濃情極まれりですな。身体に毒ですぜ。……愛妻に気をもませてさ、久我さんもよくないよ。……いったいどこへ行ったんだろう」
 そして、へ、へ、へ、と人を喰った笑いかたをした。なにもかにも、すっかり察してしまったらしい口吻だった。
「……ひとの知らない苦労てえのは、だれにも
前へ 次へ
全94ページ中59ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング