あるもんだねえ、ここの開業のとき、あたしはだいぶ古家具を周旋したんだがねえ、どうしても金をよこさない。こんな……てあい[#「てあい」に傍点]にかかったら、まったく手も足も出やしない。……じっさい、泣かせますよ」
慰めるつもりなのか、額を叩きながら、とめ途もなく、べらべらと喋言りつづけた。
電話室でベルが鳴った。葵は本能的に立ちあがって受話器をとった。果して久我だった。きょうの午後、那須たちと新宿の〈磯なれ〉で逢うことになったから、晩飯にはすこし遅れるかも知れないという電話だった。
葵は出来るだけ快活な口調で、
「え、わかってよ。ご用はそれだけ? それで、いまどこにいらっしやるの?」
と、たずねた。思わず声が震えた。久我は、いま本庁の特高課にいると、こたえた。葵は泣きだしたいのをこらえながら、息をつめてとぎれとぎれに、いった。
「……それから、さっきはごめんなさい。あたし、どうかしてたんです。ゆるしてちょうだい。……どうぞ、あたしをいやになったりしないでね。……それから、上高地へ行きましょうね。出来るだけはやく。……こんな神経質では、あなたを困らせるばかりだから……え、そうよ。明日でもいいわ。たくさんお話ししたいことがありますから、なるたけ早く帰ってちょうだい」
久我は、そうときまったら明日にも発とう。旅費は、不愉快だが乾に借りてもいいのだから。……そういって、電話を切った。
〈この声は、どこかでいちど聴いたことがある。と、葵はかんがえた。……そうだ、葵に遺産遺産相続の通知をした「あの女」の声だ。神戸のトア・ホテルでもそう思った。あの時は気のせいだろうと打ち消したが、こんどはもう紛れもない。おしだすようなこの錆声、すこし訛のあるず[#「ず」に傍点]の音、舌が縺れるようなこの早口な言いかた……。「あの女」の声だ。……すると、絲満を殺したのは、やはり久我だったのだ。すくなくとも、なにかの関係をもっている。……久我がひとごろし……〉
こう考えながら、不思議にも葵は悲しくも恐ろしくもなかった。反対に、なにか穏やかな感情のなかにひきいれられてゆくのを感じた。
〈……いとしいひとよ、ひとこと打ちあけてくれたら、どんなに嬉しかったでしょう。そうすれば、あたしが逃げだすとでも思っているのですか。……あたしはごく普通な倫理でしかものを考えることが出来ないけれども、あなただけ
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