ぼって、眼のまえが暗くなった。支離滅裂な考えが、ピラピラといくつも頭のなかを走りすぎた。
〈……久我はあたしを愛していたのではない。……この証拠を握るためにあたしと結婚したのだ。……卑劣な刑事根性……〉
 握りしめていた茶碗が、思いがけなく葵の手を離れて壁のほうへ飛んでゆき、そこで鋭い音をたてて微塵に砕けた。
 卓のむこうに飽気にとられたような久我の顔があった。
 葵はその顔を、キッと睨みつけながら、
「そんなにしてまで、あたしを人殺しにしたいんですか。……罠にかけるようなことをして、それを手柄にするつもりなんですか。……卑怯だわ。あなたがそういうなら……」
〈あたしにも言いたいことがある。あたしこそ、あなたが犯人じゃないかと思っている。でもいちどだってそれを口にだしたことがあるか。それなのに、あなたは……〉
 耐えがたい孤独感が葵のこころをつよく絞めつけた。卓にうち伏すと、声をあげて泣いた。久我が立ってきて葵の肩へ手を置いた。
「……葵君、君は疲れているんだよ。それで、なんでもないことが癇にさわるんだ。すこし休養しなくては駄目だね。……そういう僕も、つくづくこの稼業がいやになった。このごろはやめることばかり考えている。……(それから葵の顔を覗きこむようにして)どうだ、葵君、二人で山奥へ行く気はないか。……僕の友人が上高地のずっと上で、たくさん牛を飼っている。やってこい、やってこいと、この間からしきりに言ってよこすんだ。山にこそ直接な自然がある。牛や巒気と交わりながら、しばらく悠々とやってみようじゃないか。いまの君にはなによりそういう生活が必要なんだ」
 優しそうないい廻しのなかに感じられる冷酷さは、なにか、ぎゅっと胸にこたえた。涙にぬれた顔をあげると思いきって久我の手を払いのけた。
「あたしのためなら、どうぞ放っておいてちょうだい。……いらしたかったら、あなたひとりでいらしていいのよ」
 これで、言いたいことをいった、と思った。久我は暗い眼つきをして、葵のそばから身体をひくと、
「……いまは、いろいろに言うまい。……僕は本庁へ行ってくる。……ひとりで、よく考えておいてくれたまえ」
 つづいて、イライラと立ちあがると、投げつけるように、いった。
「考えることなんか、なにもありやしないわ。警視庁だろうが、検事局だろうがあたしはもう恐わくはないんです。……いつでも行って
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