間代のゆえに、思いきってここを動きかねているのだった。
 アパートの女将の朱砂ハナというのは、琉球の絲満の生れで、ついこの頃まで洲崎のバアで女給をしていた。もと小学校の先生をしていたというのが自慢なのだが、それは嘘ではないらしく、いかにも抜目のない感じのする女だった。額の抜けあがった浅黒い陰険そうな顔つきをし、夕方になると事務室の奥で、生意気なようすでオルガンなどを奏いていた。
 商売のほうの連絡は四通八達らしく、だまって坐っていても電話でまいにち相当の申込があるようすだった。琉球訛のある甲高い声でテキパキと応対し、話がきまるとすぐ女の部屋へあがってゆく。女がいなければそのカフェへ電話をかけて行先を知らせた。
 仲介だけを専門にやり、アパートへ男を連れ込むことを絶対に禁じていたが、体操学校の女学生というのだけはなぜか大目に見ていた。十七八の猫のような顔をした娘で、五人の中学生の共同出資で囲われていた。若い旦那たちは毎朝ここへおち合って娘のつくった朝飯をくい、元気よく揃って学校へ出かけて行くのだった。五日目ごとに順番が廻ってくるのらしく、夕方になると、まいにち違った顔がひとりだけ娘の部屋へやって来た。ちょうど、この隣りが葵たちの部屋になっているので、憚るところのない猥らなもの音が、薄い壁をとおして手にとるように聞えてきた。
 久我がなぜこんなアパートへ引越してきたか葵にはよくわかっていた。なに気ないふうをしているが、久我には金がないのだ。新婚旅行のために月給の前借をしたのらしく、先月の末に持って帰ったのはたった五円だけだった。葵にはもともと貯えなどはなかったので、いきおい身の皮をはいで喰うよりほかはなかった。新聞紙に服を包んでは質屋の暖簾をくぐった。いくらも貸してくれなかった。久我にみすぼらしい思いをさせまいと思って、毎日の生活は豊かすぎるくらいにやっていたので、みるみるうちにゆきづまっていった。葵の持ちものといっては、いま着ている古いアフタヌンだけになってしまった。
 葵は部屋の隅の瓦斯煖炉のまえで新聞を読みながら朝食の仕度をしていた。
 絲満南風太郎の殺人事件がいわゆる迷宮に入ってから、もう三ヵ月の余にもなる。新聞の三面はその後この事件を忘れていたが、昨日の夕刊から新しい展開にしたがって、また活発な報道をはじめていた。警視庁の捜査第一課はとうとう真犯人を袋小路《ア
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