前がない。手がふるえた。手紙にはこう書いてあった。
〈雨田葵君は、絲満が殺害された夜の一時頃、非常梯子をつたって、ひそかに戸外へ抜けだしているという事実があります。これはどういうことを意味するか知りませんが、こういうことを承知していられるのもお便利と思い、ちょっとご注意までに申上げました。一友人より〉
 葵は床の上へ坐りこむと両手で顔を蔽った。
 あの晩、非常梯子をつたって出て行ったのは葵ではなかった。葵の母とも姉ともいうべきむかしの家庭教師、志岐よしえである。六月一日の銀行ギャング事件の迸《そばづえ》を恐れて東京へ逃避し、三日のあいだ葵の部屋に潜伏していた。
 葵にはそういう思想運動には同情も興味もない。ただよしえへの愛情のためにしたことだったが、かりにこれを久我に告白したとしても、その通りに信じてもらえるであろうか。また、たとえ、久我からどのように考えられようとも、もうしばらく、これを告白するわけにはゆかない。よしえの信頼だけは裏切りたくないのだ。
 それにしてもこんな陰険な振舞をするのは誰だろう。……ふと、かんがえついた。西貝。そういえば、披露式の夜、葵にたいするそれとない無礼な態度、人殺しといわんばかりのあてこすりも、いまにしてみればその意味がわかるのである。
 葵は床の上へ長く寝て眼をとじた。
 だれか、扉をノックする。

     7

 神戸から帰ってくると、久我と葵は新聞記者の那須の紹介で、淀橋の浄水場裏にある〈フレンド荘〉という安アパートへひき移った。派手すぎる久我のやり方に不安を感じていたので相応にひきしめて暮すことは葵としてはむしろ賛成だったが、それにしても、このアパートはすこしひどすぎた。
 うす暗い路地の奥に、悪く凝った色電気の軒灯などをつけ、まるで安手のチャブ屋のような見かけの家だった。壁には縦横に亀裂がはいり、家具はどれもこれもぞっとするようないやらしい汚点をつけていた。路地の片側はトタン塀で、いち日中そこから劇しい照りかえしがきた。
 このアパートは、いわゆる源氏宿のひとつで、百貨店の売子やダンサーや女給などを、うまく足どめしてあるのはいうまでもないが、猶そのほか、実直な薄給のサラリーマンを驚くほど安い間代で止宿させていた。これは警察の注意や近所の評判をそらすためで、それら真面目な連中も、うすうすはこの事情を知っているが、無料にちかい
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