老人がいるがね、僕の睨んだところでは、これがいちばん闇黒なんだ。(と、いうと、なんともつかぬ微笑をうかべながら)それから、……その葵という、僕の、……ま、これについてはいずれゆっくり話すが、僕はちょっと手をつけた。だがね、やはり探偵小説は僕の手に合わない。結局得るところはなにもなかった。それで、僕はこれからすぐ……十時二十分で発つが君は?」
「僕はあすの十一時十八分」
山瀬のほうへ手をさし出しながら、久我がいった。
「それでは、僕はここでおりる。もう時間がないから、この辺からちょっとホテルへ電話をかけて仕度をさせておくつもりなんだ」
ちょうど尼ヶ崎のちかくだった。
山瀬は久我の手を握りかえしながら、
「じゃ、また東京で」
「どうか、お大事に」落着いた口調で、山瀬がこたえた。
「大丈夫だ。どんなことでもしてやる。解除の時を待てばいいだけのことだから……じゃ……」
久我は片手をあげて山瀬のタキシに挨拶すると、停留場前の明るい喫茶店へはいっていった。いりちがいに、なかから若い娘がひとり出てきた。窪んだ眼、高い鼻、……典型的なこの南島人の顔は、たしかにどこかで見たことがある。
ようやく思いだした。はじめて〈シネラリヤ〉へ葵をたずねていったとき、そばへよってきて、踊ってちょうだい、といった、あの鮭色のソワレを着た娘だ。それにしても、もうこんなとこまで流れてきているのか。
久我は珈琲を注文すると、すぐ立ちあがって電話室へ入って行った。
電話がかかってきたときは、葵はちょうど風呂からあがったばかりのところだった。用事はほとんどひと言ですんだ。が、受話器をもとへもどすと、葵の顔は突然蒼ざめてしまった。
葵がいまきいた声は、まぎれもなく、最初葵に遺産相続の通知をした〈あの女〉の声だった。葵のこころには、また雲のように疑惑がわき起ってきた。しかし……
〈しかし、……そんなことがあろうはずはない。と、かんがえる。……たったいちどだけきいた(あの女)の声を記憶している筈はない。それなのに、どうして久我の声と似ているなどと思うのだろう。たしかにこれは神経衰弱なのにちがいない〉
それにしても、理窟ではない。久我の声は〈あの女〉の声だ。……葵は立ちあがって、鞄へ入れるために久我の服をそろえはじめる。なに気なくそれを振った拍子に、白い封筒がひとつヒラリと床に落ちた。……差出人の名
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