すこしそり身になって、鮨や小鰭のすうし……と細い、よく透る、震いつきたいようないい声でふれて来ると、岡場所や吉原などでは女たちが大騒ぎをする。
文化の前までは、江戸の市中には日本橋の笹巻鮨《ささまきずし》と小石川|諏訪町《すわちょう》の桑名屋《くわなや》の二軒の鮨屋があったきり。もちろん、呼売りなどはなかった。天保の始めからおいおい鮨屋がふえて、安宅《あたけ》の松の鮨、竈河岸《へっついがし》の毛抜《けぬき》鮨、深川|横櫓《よこやぐら》の小松鮨、堺町《さかいちょう》の金高《かねたか》鮨、両国の与兵衛《よへえ》鮨などが繁昌し、のみならず鮨もだんだん贅沢になって、ひとつ三匁五匁という眼の玉が飛びだすような高い鮨が飛ぶように売れた。
鮨の呼売りは天保の末から始まったことで、そういう名代の鮨屋が念入りに握って、競って声のいい売子にふれ売りさせる。声のいい売子をかかえているのが店の自慢。
万事こぎれいで、いなせで、ふるいつきたいほど声がいい。玄人女の中には、ようすのいいのにぞっこん惚れこんで血道をあげるのもすくなくないが、こちらは荒い風にもあたらぬ大家のお嬢さん、いくら声がよくとも小粋でも、
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