。正直なところ、その件であっしは二進も三進も行かなくなっているンです。念入りにひとりずつ叩いて見ましたが、いっこうどうということもない。今さら見こみちがいじゃおさまらない。調べがある調べがあると言って、みなまだ伝馬町へとめてあるンですが、どうにもおさまりがつかなくなってしまいました」

   箸の辻占

 小鰭の鮨売といえば、そのころは鯔背《いなせ》の筆頭。
 ……髪は結い立てから刷毛ゆがめ、博多帯、貝の口を横丁にちょと結び、坐りも出来ぬような江戸パッチ……と、唄の文句にもある。
 新しい手拭いを吉原かぶりにし、松坂木綿の縞の着物を尻はしょりにし、黒八丈の襟のかかった白唐桟の半纒。帯は小倉の小幅《こはば》。木綿の股引をキッチリとはき、白足袋に麻裏という粋な着つけ。
 三重がさねの白木の鮨箱を肩からさげ、毎日正午すぎの六ツ七ツのころにふれ売りに来る。
 小鰭の鮨売といえば、声がいいことにきまったようなもの。いずれも道楽者のなれの果、新内や常磐津できたえた金のかかった声だから、いいのには無理はない。
 三重がさねの上の二つには小鰭の鮨や鮪の鮨、海苔巻、卵の鮨、下の箱には銭箱と取り箸を入れ、すこしそり身になって、鮨や小鰭のすうし……と細い、よく透る、震いつきたいようないい声でふれて来ると、岡場所や吉原などでは女たちが大騒ぎをする。
 文化の前までは、江戸の市中には日本橋の笹巻鮨《ささまきずし》と小石川|諏訪町《すわちょう》の桑名屋《くわなや》の二軒の鮨屋があったきり。もちろん、呼売りなどはなかった。天保の始めからおいおい鮨屋がふえて、安宅《あたけ》の松の鮨、竈河岸《へっついがし》の毛抜《けぬき》鮨、深川|横櫓《よこやぐら》の小松鮨、堺町《さかいちょう》の金高《かねたか》鮨、両国の与兵衛《よへえ》鮨などが繁昌し、のみならず鮨もだんだん贅沢になって、ひとつ三匁五匁という眼の玉が飛びだすような高い鮨が飛ぶように売れた。
 鮨の呼売りは天保の末から始まったことで、そういう名代の鮨屋が念入りに握って、競って声のいい売子にふれ売りさせる。声のいい売子をかかえているのが店の自慢。
 万事こぎれいで、いなせで、ふるいつきたいほど声がいい。玄人女の中には、ようすのいいのにぞっこん惚れこんで血道をあげるのもすくなくないが、こちらは荒い風にもあたらぬ大家のお嬢さん、いくら声がよくとも小粋でも、道楽者くずれの小鰭の鮨売などに迷って駈けだそうなどとは考えられない。仮に小鰭の鮨売がこの事件に関係があるとするなら、これには、裏になにか複雑《いりく》んだアヤがなければならぬはず。
 アコ長は、真顔になって、長い顎を撫でながら、とほんとなにかかんがえていたが、そのうちに、れいによって唐突《だしぬけ》に、
「おい、ひょろ松、それで鰭売はどう言うんだ」
「……たしかに、その日その刻、おっしゃる家の近くを通りましたが、あっしは塀の外をふれて歩いたばかり……。ちょうどその日、浅草材木町の石田郷左衛門の家と下谷の山本園の近くで、佐吉というその鮨売がふれて行くのを見ていたものがいて、それが証人になっているンですから佐吉の言うことには嘘はないらしいンです」
「それは、どこの売子だ」
「両国の与兵衛鮨の売子です」
「ほかの二人のほうはどうだ」
「大桝屋のお文のほうは、堺町の金高鮨の売子で新七。……桔梗屋のお花のほうは、深川の小松鮨の売子で、八太郎というンですが、この二人のほうもべつに娘たちに近づいたようすはないンです」
「それはそれでいいが、そいつらはいったいなんと言ってふれて歩いたんだ」
「……小鰭の鮨や、小鰭の鮨……」
「笑わしちゃいけねえ。小鰭の鮨売が小鰭の鮨というのには不思議はなかろう。そのほかに、なにか無駄なセリフがなかったのかと訊ねているんだ。文句にしろ唄にしろ、娘を引っぱり出すような気障《きざ》なふれ方をしたのじゃなかったのか」
「いいえ」
「こいつア驚いた。どうしてそれがわかる」
「なにしろ、そういういい声なンで、お店の番頭や丁稚が耳の保養のつもりで待ちかねていて、きょうの鮨売は昨日のよりはいい声だとか渋いとかと評判をするンです。そういうわけですから、ふれ声の中になにか気障な文句でもまじったら、誰にしたって聞きのがすはずはない。佐吉にしろ、新七にしろ、また八太郎にしろ、その日その家の近くでふれ声を聞いていたのは一人や二人じゃないンですから、これには間違いはありません」
「おやおや、それじゃまるっきり手も足も出やしない。……すると、なんだな、ひょろ松、こりゃア神隠しだ」
「じょ、冗談。……そんなこと言ってなげ出してしまっちゃ困ります。なんとか、もうすこし考えて見てください」
「それまでに言うなら、もうすこし頭をひねって見ようか」
 と言って、腕を組み、
「おい、ひょろ
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