顎十郎捕物帳
小鰭の鮨
久生十蘭
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)谷中《やなか》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)五代目|団蔵《だんぞう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#歌記号、1−3−28]
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はやり物
谷中《やなか》、藪下の菊人形。
文化の末ごろからの流行《はやり》で、坂の両がわから根津神社のあたりまで、四丁ほどのあいだに目白おしに小屋をかけ、枝を撓《た》め花を組みあわせ、熊谷《くまがい》や敦盛《あつもり》、立花屋の弁天小僧、高島屋の男之助《おとこのすけ》。虎に清正、仁田《にたん》に猪。鶴に亀、牡丹に唐獅子。竜宮の乙姫さま。それから、評判の狂言を三段返し五段返しで見せる。人形の首は人気役者の顔に似せ、衣裳は、赤、白、紫、黄、色とりどりの花を綴《つづ》って飾りたてる、それが、実に見事。
もとは巣鴨の染井や麻布の狸穴だけのものだったが、そのほうは廃《すた》れ、このせつは谷中の名物になり、地元の植木職が腕によりをかけていろいろと趣向を凝らす。菊人形師などというものもあらわれ、小屋の数もふえて六十軒あまり。小屋名の入った幟を立て、木戸には木戸番がすわって、
「こちらが菊人形の元祖、植半《うえはん》でござい。当年のご覧ものは、中は廻り舞台、三段返し糶上《せりあ》げ。いちいち口上をもってご案内。サア、評判評判」
「手前どもは植梅《うえうめ》でございます。五代目|団蔵《だんぞう》の当り狂言『鬼一法眼三略巻《きいちほんげんさんりゃくのまき》』。三段目『菊畑』、四段目は『檜垣茶屋《ひがきぢゃや》[#ルビの「ひがきぢゃや」は底本では「ひがきじゃや」]』。おなじく五段目『五条ノ橋』は牛若丸の千人斬り。大序より大詰めまで引きぬき早がわり五段返しをもってお目にかけます。……大人は百五十文、お子供衆はただの五十文、お代は見てのおもどり、ハア、いらはい、いらはい」
「手前どもは植金でございます。今年の趣向は例年とこと変り……」
と、声を嗄《から》し、競《きそ》って呼びこみをする。
たいした人気で、九月の朔日《ついたち》から月末までは根津から藪下までの狭い往来が身動きもならぬほどの人出。下町はもちろん、山の手の人びとも芝居は一度ぐらい抜いてもこの菊人形ばかりは見のがさない。
見物を目あての担売《にないう》り、茶店、けんどん、安倍川餅、茶碗酒などが片がわに店を張り、白粉を塗った赤前垂の若い女が黄いろい声で客を呼ぶ。……寄っていらっしゃい。ちょうどお燗もついております。
菊人形では植木屋半兵衛の小屋がいちばん古く、人形のほかに蕎麦を喰わせる、藪下の蕎麦といって菊人形の見物につきもののようになり、菊を見たかえりには、たいていここで憩《やす》む。
鍵手に曲った土間の片がわに自慢の千輪咲きやら懸崖《けんがい》やらをズラリとおきならべ、そのそばで手打の蕎麦を喰わせる。土間には打ち水をして、菊の香が清々《すがすが》しい。それが、自慢。
その植半の奥まったところにかけているのは辻駕籠屋のアコ長と相棒のとど助、それに北町奉行所のお手先、例のひょろりの松五郎の三人。
アコ長の本名は仙波阿古十郎。どういう間違った生れつきか、人なみはずれた長い顎を持っているので名詮自性《めいせんじしょう》して、曰く、アコ長。半年ほど前までは北町奉行所の係りで、江戸一の捕物の名人などと言われたこともあったが、くだらないことで役所を失敗《しくじ》ってしまい、ほかに世すぎの法も知らないところから辻駕籠になりさがった。乞食にならなかったのがまだしもしあわせ。
ひょろ松というのは、むかしの弟子。あるいは手下。菊石《あばた》も笑靨《えくぼ》で、どこに惚れこんだのか、こんなに成りさがっても、先生とか阿古十郎さんとか奉って、むずかしい事件がもちあがるとかならず智慧を借りに来る。きょうもその伝なので。
アコ長ととど助、どちらも根が怠け者なので、金のあるうちはせいぜいブラブラして暮らす。いよいよ食う法がつかなくなると、あわてて駕籠をかつぎ出す。菊人形見物の客の帰りをひろって、とりあえず、いくらかにありつこうと藪下の道ばたに駕籠をすえ、客待ちをしているところへ宿で訊いて、ひょろ松が追いかけて来た。植半で蕎麦でも喰いながらちょっと判じていただきたいことがあるンです。
まだ、四ツをちょっと過ぎたばかりなので、客の顔ぶれは近所のご隠居体なのや、根岸あたりの寮へ来ている商家の御寮人《ごりょうにん》や高島田の娘。いずれも暇そうな顔ぶればかりで、店の中もまだたてこまない。
アコ長は、蒸籠の蕎麦をのんびりと啜りながら、額越
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