て、
「まずまずそのへんのところだ。お前がむこう見ずに鮨売の総渫いなんぞしたもんだから、どうにも後手がつづかなくなった。こんな大騒ぎをすりゃアどうしたってむこうが怯気《おじけ》づいて引っこんでしまう。引っこまれてはこちらが大きに迷惑。なんのつもりでこんなことを始めたのか、また、四人の娘がどこに押し匿《かくま》われているのか、今までの段取りではまるっきりあたりがつかねえ。いま御用部屋であんな馬鹿をして見せたのは、しょせん、むこうを安心させて誘いだし、是が非でも、せめてもう一遍やってもらうつもり」
 ひょろ松は、仔細らしくうなずいて、
「辻占のはいった割り箸は、なにも鮨屋にかぎったことじゃない。割り箸に曰くがあるというンなら、鮨屋の箸を割って見ただけでおさまりのつく道理はない。江戸じゅうの割り箸をぜんぶ調べて見なけりゃアならねえわけ。あなたほどの人がこんなことに気がつかないわけはないのだから、こりゃア、テッキリなにかアヤがあるのだと睨んでいました。……それで、これからどうします」
「なんでもいいからこちらの間違いだったということにして、鮨売をみんな放してしまえ。そこまでやったら、むこうは油断をして、かならず、引っかかって来るにちがいないと思うんだが」
「なるほど。では、あっしは、これからすぐ伝馬町へ行って……」
 気早に駈け出そうとするのを、顎十郎は押しとどめて、
「待て待て、まだ後があるんだ。……お前も見たはずだ、藪下の菊人形。……植半の小屋に坂東《ばんどう》三津五郎の似顔にした『小鰭の鮨売』の人形があったが、お前、あれをどう思う」
「どう思うといいますと」
「歌舞伎の所作事《しょさごと》の物売[#「物売」に傍点]と言えば、まず、乗合船の『白酒売《しろざけうり》』。法界坊の『荵売《しのぶうり》』。それから団扇売、朝顔売、蝶々売。……魚のほうでは、立花屋の『鯵《あじ》売』『松魚《かつお》売』てえのがあるが、小鰭の鮨売というのはまだ聞かない。ところで、立札には、ちゃんと所作事としてあった。……いったい、これはどういうわけなのか、足ついでに猿若町へ行って、それとなくその次第をききこんで来てくれ。おれはとど助さんと茅場の茶漬屋で飯を喰いながら待っているから」
 アコ長ととど助が約束の場所で待っていると、ほどなくひょろ松が駕籠を飛ばして帰って来た。
「……阿古十郎さん、ちょっと変ったことがありました、こういう話なンです。……こんど大和屋《やまとや》が名題に昇進した披露をかねて立花屋の『鯵売』のむこうを張って、常磐津文字太夫《ときわずもじたゆう》、岸沢式佐《きしざわしきさ》連中で『小鰭の鮨売』という新作の所作事を出すことにきまりました。これは、頭取と幕内と大和屋の三人だけの内証《ないしょ》になっているンですが、どこからもれたのかこちらよりさきに菊人形にされてしまい、中村座では大きに迷惑をしているンで……」
「ふむ」
「……ところで、もうひとつ耳よりな話があるンです。このひと月ほど前から市中の女髪結《おんなかみゆい》や風呂屋で、こんど大和屋が小鰭の鮨売の新作所作事を出すについて、ようすを変えて鮨売になり、市中を呼び売りして歩く。うまく三津五郎だと見ぬいたひとには家紋入りの印物《しるしもの》をくれるという噂が立っているンです。……金春町《こんぱるまち》のお兼の女髪結へ寄って見ましたが、なるほどたいへんな評判。髪を結いに来ている娘や芸者が髪などはそっちのけでズラリと格子窓のそばへ並び、鮨売が来たらその中から大和屋を見つけて印物をもらうのだとたいへんな騒ぎをしておりました」
 顎十郎は、
「ほほう、そんなことがあるのか。それほどの評判を三人が三人ながら、きょうまで知らなかったというのは間ぬけた話。馬鹿なこともあるもんだ」
 と言って、ひょろ松のほうへ振りかえり、
「ひょろ松、じゃア、これは大和屋の仕業か」
「芸はうまいが大和屋は名代の女たらし。このせつ評判がいいので図に乗ってそんなことをやったのではないでしょうか。……しかし、四人までも堅気の娘をおびき出してとじこめておくということになりゃア、これは大事件。名題昇進の披露を前にひかえて、いくら三津五郎でもそんな馬鹿はしなかろうとは思いますが、ことによったらことによる。これからすぐ中村座へ出かけて行って、三津五郎を問いつめてみようじゃありませんか。ひょっとしたら瓢箪から駒が出るかも知れない」
 勘定をはらって、すぐ猿若町。ひょろ松がさきに立って楽屋口から頭取の座に入って行くと、ちょうど三番目の『雨夜蓑笠《あまよのみのがさ》』の幕がおりたところで、三津五郎が芸者美代吉の扮装《きつけ》で舞台から帰って来た。
 ひょろ松が声をかけると、三津五郎はちょっと顔色を変えたが、悪びれたようすもなく、三人をじぶんの部
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