屋へ案内した。顎十郎は、のほんとした口調で、
「なア大和屋、このせつ江戸でたいへんな評判になっているものがあるんだが、ご存じか」
 三津五郎は、嚥みこめぬ顔で、
「はて、なんでございましょう。このせつなら、まず、藪下の菊人形……それから……」
「お前さんの小鰭の鮨売」
「えッ」
「お前さんがこんど新作の所作事を出すについて、その稽古に、小鰭の鮨売になって町をふれ売りして歩いているそうだが、役者というものはなかなかたいへん。そうまでして鮨売の型を取ってじぶんのものにする。こりゃア並みたいていの苦労じゃあるまい。……じつは、今日さるところでお前さんの噂が出て、若いのに熱心なことだと、その座にいたものがひとり残らず口を揃えて褒めていた。このごろは役者のがらが落ち、女子供の人気をとるのに一生懸命で、肝腎の芸のほうはまるっきりお留守。そういう中でじぶんから鮨売になって町をふれて歩くなんてえのはまことに感に堪えたはなし。大へん嬉しく聞いたので、この近くまで来たついでにちょっと顔を見によったというわけ。ほんとうの役者らしい役者は、とうせつ大和屋にとどめをさす。いや天晴々々、当人を前においてこんなことを言うのも妙なもんだが、真実のところ、見なおした」
 三津五郎は、膝に手をおいて聴いていたが、顎十郎がいいおわると、静かに顔をあげて、
「とんだお褒めで痛み入ります。嘘ではあれ、その言葉にたいしてはお礼を申しのべますが、きょうお出かけになりましたのは、わたくしをお褒めになるためではございますまい」
 と言って、キッパリとした顔つきになり、
「お先走ったことを申しあげるようですが、こうして揃ってお出かけになったのは、この三津五郎をお手当《てあて》なさろうため」
 ひょろ松は、グイと膝をすすめて、
「そう言い出すからには、なにか身におぼえがあるというわけか。さもなけりゃア、すこし察しがよすぎるようだな」
 三津五郎は手をあげて、
「ちょっとお待ちくださいませ。身に覚えはありませんが、わたくしの身に濡衣《ぬれぎぬ》がかかるわけは存じております。……千住三丁目の大桝屋さんはわたしの永のご贔屓《ひいき》。そのお娘御のお文さんというのが、鮨売に来たわたくしから印物をもらうんだと言って駈けだしたまま、今もって行きがた知れずになっている。たぶんお前の仕業だろうというので大桝屋の旦那が隠れるようにしてこっそりわたくしのところへやっておいでになりまして、これをおもて立てれば自分一家の恥だから、そうと気がついていたがわざと手先の耳にも入れずにおいた。今のうちに返してくれさえすれば胸をさすって内分にしてやるからという意外なお話。わたくしといたしましては寝耳に水。まるで狐につままれたような気持。……名題昇進の披露に『小鰭の鮨売』の新作所作を出しますことはまだまだ先のことで、わたくしと座元と頭取の三人の胸にだけあること。どうして洩れたのか、それさえ訝しく思うくらい。いわんや、わたくしが鮨売になって町をふれ歩き、わたくしと見やぶった人に印物をくれるなどというのは思いもよらぬことなのでございます」
 ちょっと言葉を切り、
「……ところで、わたくしが鮨の呼売りをして歩いたと言われている八ツから七ツまでの時刻には、毎日寺島の寮で父親の看病をしておりまして、そこから楽屋入りをしておりますような次第。その時刻にわたくしが寮におりましたことは、大勢、証人がございます。……それで、大桝屋の旦那を寺島村の寮までお伴《ともな》い申し、わたくしが鮨の呼売りなどが出来なかった次第を実証いたしましたところ、それでようやくお疑いがとけたというわけでございました。……それにもうひとつ、わたくしの身のあかしを立てることがございます。只今のお言葉のうちに、わたくしがじぶんで鮨売になって市中を徘徊したという条《くだり》がございましたが、憚りながら、それは役者というものをご存じのないおかんがえ、小鰭の鮨売の型をとるためなら決して、じぶんで鮨売などにはなりません。鮨売の後からついて歩いて、声の調子やメリハリの細かい勘どころを仔細に見とりいたします。じぶんが鮨売になったのではそういう見とりは出来ません。なにとぞ、そのへんのところも、しかるべくおかんがえあわせくださいませ」
 顎十郎はうなずいて、
「今までつくづく伺っていたが、お前さんの話に嘘はない。……八ツから七ツまでのあいだ、寮にいたかいないか、そんなことはともかく、わたしならば鮨売にはならないだろうというひと言が、お前さん、はっきりと無実を言いといている。……なるほど、こいつは理屈だ。型をとるのにじぶんが鮨屋になるやつはない。もっとも過ぎておかしなくらい。なぜそういうことに今まで気がつかなかったか」
 いつになく殊勝らしいことを言っておいて、
「こうなったら正
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