ませんでした。……世間の評判というものはいい加減なもので、じつは、ちょっとした密告《なげこみ》がありましたンで、捨てもおけず、こうやって詮議の真似事をいたしましたが、よく筋が通りましたから、これで引きとることにいたします。まア、どうかお気にさえられないように……」
 万屋の店を出ると、顎十郎はニヤリと笑って、
「どうだ、ひょろ松。棺がふたつ入ったというおれの推察《みこみ》にはちがいはなかったろう。奴らのほうではよほど以前からチビチビと毒を盛っているンだから、盛り加減で、だいたいいつごろお米が絶気するかわかっている。万屋で平野屋へ棺を注文したのを見とどけると、へい、ただ今と用意してあった棺をかつぎこむ。こりゃア誰にしたって怪しむセキはない。お米のそばに残っているのはお時という小間使ひとり。こいつは同類《ぐる》なんだから、棺をしょいこんで来たやつに手を貸し、棺へ入ってきた替玉とお米をすりかえ、その中のひとりは中ノ玄関で待っていて、平野屋の隠居がかついできた棺の断りを言う。いや、もうじつに簡単な話。こんなことがどうしてお前の智慧に及ばなかったか、そのほうがよっぽど不思議」
 ひょろ松は、照れくさそうな顔をして、
「ひとがひとり死にゃア棺桶はひとつにきまったもの。そうとばかりかんがえが固まっているもンだから、ふたつとまでは思いつけませんでした。いや、どうも大失敗《おおしくじり》」
「……それについて、おれはちょっとかんがえたことがあるンだが、お前、すまないが万屋へもどって、お利江さんをちょっと呼びだして来てくれ。おれは浄心寺の帝釈堂《たいしゃくどう》の前で待っているから。……おれの頼むことに、もしお利江さんがウンと言ってくれたらだいぶおもしろい芝居が打てそうだ」

   庭先の影

 奈良茂の十層倍という木場一の大物持。その万和がすることだからなにもかも大がかり。いちど死にかけた娘をひろった嬉しまぎれで、金に糸目をつけぬ豪勢な祝儀。
 格天井を金泥で塗りつぶし、承塵《なげし》造りの塗ガマチに赤銅|七子《ななこ》の釘隠しを打ちつけた、五十畳のぜいたくな大広間の正面に金屏風を引きまわし、阿蘭陀《おらんだ》渡りの大毛氈を敷きつめ、左右の大花瓶には天井へとどくばかりの大木のような松をさしこんで、これに一羽ずつ本物の生きた鶴をとまらせる。六畳敷ほどもある大きな島台をすえつけ、その上に猿若町《さるわかまち》の役者を翁と嫗《うば》に扮装させて立たせ、岩木は本物の蓬莱石《ほうらいいし》。亀はこれもまた生きた蓑亀《みのがめ》をつかって、甲羅に金泥で『寿』という字が書いてあるという豪奢かげん。
 大島台の前に花婿と花嫁がすわり、親類縁者、出入りの懇意の者までひとり残らず上下をつけていながれ、いよいよこれから盃事《さかずきごと》に移ろうとするとき、ひろびろとした前栽の松の木の下にぼんやりと浮かびあがったひとの姿。
 白羽二重の寝衣をグッショリと水に濡らし、肩や袖に水藻や菱の葉をつけ、しょんぼりと立っている首のない女の幽霊。
 縁の近くにいたひとりが見て、わッ、と頓狂な声をあげたので、一同、なんだろうとそのほうへ振りかえる。男蝶《おちょう》女蝶《めちょう》の子供はひと目見るより、
「あれッ」
 と言って、長柄《ながえ》の銚子を投げ出して畳へつっぷしてしまう。
 この声に、つつましくうつむいていたお米が、綿帽子のはしを捲くりあげてヒョイとそのほうを眺めると、顔色を変えて、
「ちッ、ふざけるない」
 と叫びながら、盃台の朱塗りの盃をとりあげて亡霊のほうへ投げつけておいて、となりに坐っている花婿の金三郎の手をとり、
「おい、梅花《ムイハア》、あんなものまで庭先へ立たせるようじゃ、なにもかもネタが割れた証拠。人間は切りあげが肝腎。このへんで尻ッ尾をまいて逃げだそうぜ。マゴマゴしていると手がまわる」
 木曽の親類だといって、金三郎の介添になっていた骨太なふたり。いきなり突ったちあがって袴をぬいで畳にたたきつけると、
「おい、親分、お蓮のいう通り、もうこのへんが見切りどき。そんなところへ根を生やしていねえでいさぎよくお立ちなせえ。……どうせ、おれらは海の賊。たとえ江戸一の金持であろうと、婿面をしておさまることはねえと、いくらとめたか知れねえのに、陸へあがったばっかりにこのだらしなさ。手のまわらねえうちに早く飛びだしましょう」
 金三郎は、袴の裾をまくって大あぐらをかき、
「唐天竺《からてんじく》まで荒しまわっても、一代では五十万両の金をつかめねえ。……廈門《アモイ》の居酒屋で問わず語らずの金三郎の身の上話。うまく持ちかけて盛り殺し、陜西《シェンシー》お蓮がお米と生写しなのをさいわいに四人がかりの大芝居。寧波《ニンパオ》のお時を小間使に化けさせ、まず邪魔な惣領のお梅を砒霜
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