顎十郎捕物帳
金鳳釵
久生十蘭
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)花婿《はなむこ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)長屋|雪隠《せっちん》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1−13−24]
−−
花婿《はなむこ》
二十四日の亀戸天神《かめいどてんじん》様のお祭の夜からふりだした雨が、三十一日になっても降りやまない。
神田佐久間町の焙烙《ほうろく》長屋のドンづまり。古井戸と長屋|雪隠《せっちん》をまむかいにひかえ、雨水が溝《どぶ》を谷川のような音をたてて流れる。風流といえば風流。
火鉢でもほしいような薄ら寒い七ツさがり。火の気のない六畳で裸の脛をだきながらアコ長ととど助がぼんやり雨脚を眺めているところへ、油障子を引きあけて入って来たのが、北町奉行所のお手付、顎十郎のおかげでいまはいい顔になっている神田の御用聞、ひょろりの松五郎。
二升入りの大きな角樽《つのだる》をさげニヤニヤ笑いをしながらあがって来て、
「へへへ、案の定《じょう》ひどくシケていますね。たぶん、こんなこったろうと思ってこうしてお見舞いにあがりました。今朝『宇多川《うたがわ》』に着いたばかりの常陸《ひたち》の地廻り新酒、霜腹《しもばら》よけに一杯やって元気をつけてください。……こうしておいて、またいつか智慧を借りようという欲得づく」
いいほどに飲んでいるところへ『神田川』から鰻の岡持《おかもち》がはいる。すっかり元気になって三人|鼎《かなえ》になって世間話をしていたが、そのうちにひょろ松は、なにか思い出したように膝を打って、
「阿古十郎さんもとど助さんも、そとで稼ぐ商売だからもうご存じかも知れませんが。……阿古十郎さん、万和《まんわ》の金の簪の話をお聴きになりましたか」
「万和といえば深川木場の大物持ち。吉原で馬鹿な遊びをするから奈良茂《ならも》のほうがよく知れているが、金のあるだんになったら、万屋和助は奈良茂の十層倍、茂森町《しげもりちょう》三町四方をそっくり自分の屋敷にし、堀に浮かした材木をぬかして五十万両は動かぬという話。姉娘のお梅というのが叔父の娘の花世の友達で、ちょくちょく金助町へ遊びに来ていたから顔は一二度見たことがある。……それで、万和の金の簪というのは、いったいどんな話だ」
ひょろ松は、なんということはなく坐りなおして、
「それがどうも、じつに奇妙。そのまま怪談にでもなりそうな筋なンです。時雨《しぐれ》がかったこんな薄ら寒い晩にはもってこいという話。……明日から月代りで今日一日は暇。ご存じなかったら、ひとつ、お話しましょうか」
「ひどく改まったな。が、落のあるのはごめんだぜ」
ひょろ松は、膝をにじり出して、
「まア、まぜっかえさずにお聴きなさい。……話はすこし古くなるンですが、今からちょうど十五年前。おなじ木場に山崎屋金右衛門という材木問屋。金三郎という八つになる伜があり、万和のほうには、いまあなたがおっしゃったお梅という娘があって、当時これが四つ。万屋のほうも山崎屋のほうもおなじく木曽から出てきて、もとをたずねると遠い血つづき。これまでも親類同様、互いに力になりあってやって来たのだから、いっそお梅さんを金三郎の嫁に、というと、それはなによりの思いつきというわけで、襁褓《むつき》のうちから二人を許婚《いいなずけ》にし、山崎屋から万和へ約束のしるしに鳳凰《ほうおう》を彫った金無垢の簪をやって、二人の婚礼の日を楽しみにしていたンです」
「なるほど」
「それから二年たって木曽に大きな山火事があり、山崎屋の山が五日五晩燃えつづけてそっくり灰になり問屋の仕分けも出来かねるようになったので、店をしめて長崎へ行って唐木《からき》の貿易でもし、もう一度もとの身代にしようというので金三郎をつれて長崎へ行ってしまった。その翌年の春、そっと唐《とう》へ渡るというざっとした手紙が来たきり、それから十二年ただ一度も便りがない。……お梅のほうは顔もよく覚えていない金三郎を恋い慕い、佐土原《さどはら》人形に着物をきせて三度々々|影膳《かげぜん》をすえ、あなた、あなたと生きた金三郎がそこにいるように懇《ねんごろ》に話しかける。見る眼にもいじらしいほどだったというンですが、これがほんとうの恋病《こいわずらい》とでもいうンでしょう、見る影もなく痩せほそって今年の五月十七日に影のようになって死んでしまった。母親は後妻だからいいが万和の歎きはまた格別。しかし、なにごとも前世《ぜんせ》の約束ごと。これも因縁だとあきらめ、いよいよ棺に納めるとき、鳳凰の金簪を取りだしてお梅の身
次へ
全8ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング