った。
 吉兵衛の家内のおもんは、もとは仲町《なかちょう》の羽織芸者で、吉兵衛と好きあって一緒になった仲だが、なんにしても吉兵衛の甲斐性《かいしょう》ないのと陰気くさいのにすっかり愛想《あいそ》をつかし、急にむかしの生活が恋しくなってきた。
 となりのさんざめきを聴きながら、毎日、愚痴ばかりこぼしていたが、そのうちにとうとう我慢ならなくなったと見えて、ある日、唐突に『大清』のところへ来て、仲働きにでもつかってもらいたいと言い出した。
『大清』もおどろいたが、なんといってもむかし仲町で鳴らしたからだ、老けたといっても取って二十五。愛嬌のある明るい顔立ちで婀娜めいたところも残っている。頼んでも来てもらいたいようなキッパリとした女っぷり。
 藤五郎も喉から手が出るほどだったが、なんといっても他人の家内なんだから、当人がいいなり次第にそれではと言うわけにはゆかない。ご主人の判でもあったらお引きうけしましょうと言って帰すと、おもんははっきりしたもので、判どころではない、吉兵衛の三下《みくだ》り半《はん》を持って引っかえして来て、これならば文句はありますまい、と言った。
 むかし、あれほど入れあげ
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