籠をおしつけておいて、暖簾をわけて入って行くと、やっと松がとれたばかりの正月の十日。どいつもこいつも大景気。人数にして三十人ばかり、丸煮やら柳川鍋《やながわなべ》やら大湯呑に鬼菱《おにびし》というのを注がせて、さかんに煽《あお》りつけている。
すいた床几へようやく割りこんだアコ長ととど助。けさっからの大旱魃《おおひでり》なもんだから、たちまち咽喉を鳴らし、
「いやどうも、たまらん匂いがする」
「匂いはいいが、とど助さん、後のところは大丈夫でしょうね」
「くどく念をおす必要はない。たしかに、わしが引きうけた。……おい、姐や、丸煮を二人前に、鬼菱を一升持って来まっせ、急ぎだ急ぎだ、焦がれ死にをしそうなのが、ここに二人いる。迅速《じんそく》に持って来酒《きさけ》まッせ」
酒はいい加減に切りあげて、柳川鍋でめしを五六杯。このお代が、五百五十文。
もとより、こちらは一文なし。どうするのかと見ていると、とど助が大束《おおたば》なことを言い出した。
「これこれ、姐や、主人《あるじ》はおるか。おるならちょと会いたいが……」
妙な顔をして小婢が板場へ駈けこむと、間もなくやって来たのは、ひどく兄哥面《あにいづら》をした駕籠役の帳面つけのような男。突っ立ったまま横柄な口調で、
「ご用ってのは、いったいなんです。柳川鍋の中へ鑷《けぬき》でも入っていましたか」
ナメたようなことをいう。
とど助は、落着きはらって、
「いや、そんなものは見あたらなかった。わざわざ呼び立てたが、用事というのは、ほんの、ちょっとしたことだ」
「なんでえ、こいつは。嫌に持ってまわったことを言いやがる。こっちは忙しいんだから、あっさりやってもらいてえね」
「おお、そうか。それならば、あっさり言おう。……実は、銭がない」
「なんだとッ」
「そんな恐い顔をするな。銭というものはな、あるときもあれば、ないときもある、また、あるところからないところへ常にとどこおりなく流通するのが常道なのであって、一所に長く停滞《ていたい》するのは経済の道に外れている。この理屈は『貨幣職能論《かへいしょくのうろん》』という本にちゃんと書いてある。こういう理屈によって、わしのところに、いま銭が停滞しておらん」
「ひどくしちめんどくせえことを言いやがるもンだから、ごたごたして訳がわからなくなっちまいやがった。なにが、どうしたんだと」
「わからん奴だな。きょうは銭がないから出来たらそのうちに持って来ると言っておるのだ」
兄哥面は腹を立てて、
「すると、なんだな、手めえらふたりは喰い逃げをしようてンだな」
「逃げはせん、ちゃんとここにおる」
「やかましいやい。手めえらに節季振舞《せっきぶるま》いをするためにこうして暖簾をかけてるンじゃねえ。飲み喰いしただけの銭をおいて行け」
「だから、それがないと言っているのだ」
「この野郎ッ、悪く落着いてやがる。見りゃア駕籠舁の風体だが、ここを伊勢駕の繩張りと知ってそんな頬桁をたたきやがるとは、なかなか見あげた度胸だ。なんといったって、銭をおかねえうちは帰さねえから、そう思え」
「おお、そうか。それほどまでに言うのならやむを得ん。……察しの通り、いかにもわしは駕籠屋だが、駕籠舁というものは身体ひとつが資本。この身体で、日に、少なくとも一分は稼ぐ。してみれば、わしの身体は金のなる木も同然。飲み食いをしたかわりに、この大切な資本を暫時お前のところに質におくから預ってもらいたい。……ただし、念のために言っておくが、わしの身体を預った上は、日に一分ずつわしに払わねばならん。どうか、それを承知で預ってもらいたい」
兄哥は、納得しない顔で、
「手前のような大きな図体《ずうたい》のやつを預ったうえに、日に一分ずつ払うのだと?……そんな割の悪い話はねえ」
「おお、その理屈がわかるというのは、見あげたものだ、天晴れ、天晴れ。わしを預れば、たしかにお前のほうが大損をする。わしをこのまま帰せば、わずか五百五十文のメリですむ。……どうだ、どっちにする」
兄哥は、妙な顔をして、むむ、と唸っていたが、
「みすみす損をするのがわかってるのに手前などを預るわけにはゆかねえ。飲み食いしたやつは負けてやるから、さっさと帰ってくれ」
「いや、話がわかればそれでいい。お前も大損をせずにすんで結構だった。しからば、われわれはこれで帰る、いいな」
「勝手にしやがれ、疫病神《やくびょうがみ》め!」
おもてへ出ると、顎十郎は大笑い、
「雷さん、なかなか大したお腕前ですな。『貨幣職能論』などをかつぎ出して煙《けむ》に巻いたところなんざ、天晴れなお手のうち、見なおしましたよ」
とど助の土々呂進は、やあ、と額に手をやって、
「褒めてくれては困る。ああいうテをいつも用いるように思われては、いささか赤面いたす」
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