「そういったものではありません。軍略は武士のたしなみ。こういうのを泥鰌鯰の戦法とでも言うのでしょうか」
「はッはッは、まアそんなところでしょう。……これで、腹もくちくなったし、身体も煖まった。では、そろそろ戻ることにいたそうかな」
 また、空駕籠をかついで、いいご機嫌のふたり、空ッ風もなんのその、鼻唄を歌いながらだらだらの狸穴坂《まみあなざか》を森元町《もりもとちょう》のほうへ降りかける。
 熊野神社《くまのじんじゃ》のそばまで来ると、暗闇の中から、五音《ごいん》をはずした妙なふくみ声で、
「もしもし、駕籠屋さん……」

   たぬき旦那

 片側は櫟《くぬぎ》林で、片側は土手。熊笹《くまざさ》が風にゆらいでいるばかり。闇をすかして見たが、人影など見えない。
 アコ長は怪訝《けげん》な顔で、
「ねえ、とど助さん、今、たしかに、駕籠屋さんと言ったようだったが」
「わしも、そう聞いた」
「でも、人ッ子ひとりいやしません」
「いかにも、誰もおらンな。妙な晩だの」
「あまり乗せたい乗せたいと思ってるもンだから、気のせいでそんなふうに聞えたのでしょう」
「大きに、そんなところだろう」
 行きかかると、また、呟くような声で、
「もし、駕籠屋さん……駕籠屋さん……」
 アコ長は、ゾクッとしたようすで、
「こいつアいけねえ。いやな声で呼ぶじゃありませんか」
「うむ、あまり面白からん声じゃ。ああいうのは、わしも好かん」
「しかし、呼ばれた以上は返事をしないわけにもゆきますまい」
 そう言って、声のするほうへ向って、
「駕籠はここですが、あなたは、いったいどこにいらっしゃるンです」
 沈んだ声で、
「ここです、ここです」
「ここです、じゃわからない。駕籠をめすんなら、こっちへ出て来てください」
「はい。……では、いまそちらへまいります」
 土手ぎわに大きな欅の樹が一本あって、その下闇からヒョロリと出て来たのは、年のころ三十四五の痩せた小柄な男。下顎が出っぱって頬がこけ、眼ばかりいやにキョロリとした、妙な面。
 老舗《しにせ》の小旦那といった風体で、結城紬《ゆうきつむぎ》の藍微塵《あいみじん》に琉球《りゅうきゅう》の下着、羽織は西川という堅気で渋い着つけ。
 提灯の灯影をさけるようにしながら、
「駕籠屋さん、これは戻り駕籠ですか、行き駕籠ですか」
 アコ長は、へい、と額でうけて、
「行きも戻りもありやしません。けさからずっとあぶれでケチがついたから、これから家へ帰って寝ッちまおうと思っていたところなんです」
「そんならば、お気の毒ですね」
「えッ、気の毒とは、なんのことです」
「だいぶ、遠ございますから」
「遠いたって、まさか越後までいらっしゃるというんじゃねえでしょう。いったい、行先はどちらです」
「牛込矢来の少しさき」
「すると、酒井さまのお屋敷のへんですか」
「いいえ、その前を通って、もう少し行きます」
「おう、そりゃア大変だ。すると、護国寺のへんですか」
「そこを通って、もう少し……」
 アコ長、へこたれて、
「そう小刻みにしないで、はっきり言ってくださいよ。いったい、どこなんです」
「実は豊島《としま》ガ岡《おか》までまいりたいのです」
「豊島ガ岡っていうと、あのへんは墓や森ばかりで人家などないところ。それに、これから行くと、どっちみち夜中になってしまうが、あんなところに、どんな用がおあんなさるンです」
「お駄賃《だちん》は、ウンとはずみますけど」
「駄賃のほうは、きまりだけいただけば結構ですが、……どうもねえ、あんな森ばかりあるところへ……」
「お嫌でしょうか」
「へッへ、お召しくださるのはかたじけないのですが、どうも、行きつけないところなもンですから。……ねえ、とど助さん、どうしよう、このお客さんは、豊島ガ岡までいらっしゃりたいとおっしゃるんだが……」
 とど助は、仏頂面《ぶっちょうづら》で、
「わしは満腹で気が重い。あんなところまで行ったら、もどりは夜明けになってしまう。商売|冥利《みょうり》につきるようだが、きょうはひとつ、お断りすることにしようじゃないか」
「わたしもそのほうが賛成だ。……お客さん、只今、お聞きのようなわけですから、どうか、べつな駕籠へ乗っておくんなさい」
「そう言わないで、行ってください。一両あげますから」
「えッ、豊島ガ岡まで行くと、一両くださるっていうンですか」
「はい、前払いで差しあげます」
「おい、とど助さん、どうしよう」
「そういうことなら、話がちょっと違って来た。一両とは聞きずてならん。ものははずみだ、乗せてつかわッせ」
「じゃ、お客さんまいりましょう」
「たしかに連れて行ってくれますか」
「そんな念を押さないだって、行くといった以上たしかにお供します」
 眼のキョロリとした小柄な男は、なにか言い憎
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