顎十郎捕物帳
初春狸合戦
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)睾丸《きんたま》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)伊勢|駕《かご》

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]絵《さしえ》
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   あぶれ駕籠

「やけに吹きっつぁらしますね」
「うるるる、これはたまらん。睾丸《きんたま》が凍《こご》えるわ」
 師走《しわす》からこのかた湿りがなく、春とはほんの名ばかり、筑波《つくば》から来る名代の空《から》ッ風が、夕方になると艮《うしとら》へまわり、梢《こずえ》おろしに枯葉を巻き土煙《つちけむり》をあげ、斬りつけるようにビュウと吹き通る。いやもう骨の髄《ずい》まで凍えそう。
 もとは、江戸一といわれた捕物の名人、仙波顎十郎も、この節はにわか駕籠屋で、その名も約《つづ》めて、ただの阿古長《あこちょう》。
 相棒は、九州あたりの浪人くずれで、雷土々呂進《いかずちとどろしん》。このほうも、あっさり縮めて、とど助。
 二三日あぶれつづけで、もう二進《にっち》も三進《さっち》もゆかなくなった。
 きょうは正月の十日で、金比羅《こんぴら》まいりの当日、名代の京極《きょうごく》金比羅、虎の御門そとの京極能登守の上屋敷へ讃岐《さぬき》から勧請《かんじん》した金比羅さまがたいへんに繁昌する。
 アコ長ととど助、屋敷の門前へ四ツ手をすえ、諸声《もろごえ》で、
「ヘエ、まいりましょう」
「これ、駕籠へのらんか、安くまいるゾ」
 と、懸命にやったが、ひとりも客がつかぬ。
 しかたがないから、白金《しろかね》へまわって、ここもやっぱり金比羅勧請の、高松の松平讃岐守《まつだいらさぬきのかみ》の上屋敷。植木の露店なども出て、たいへんな人出なんだが、ここもいけない。
 アコ長、とうとう音をあげて、
「こいつア弱った。こう見えても、わたしは信心のいいほうなんですが、いっこうに御利益《ごりやく》がありません」
 とど助も、弱った声で、
「いかにも珍である。こうまで精を出して、ただのひとりの客がないというのは、実に異なことだな」
「澄ましてちゃいけません、とど助さん。けさの八ツから空ッ風に吹きさらされ、おまけに形のあるものはなにひとつ咽喉を通していないんだから、くたくたのひょろひょろ、棒鼻にもたれてようやく立っているというばかり、ひでえ悪日《あくび》もあるもンだ」
「その点は、わしも同様。けさからなにも食《しょく》しておらんので、空腹でやりきれん。なんとかならんものであろうかの」
「わたしに相談しかけたってしょうがない」
「しからば、だれに相談するとか」
「なにをゆっくりしたことを言ってるんです。ひょっとすると、こりゃ、晩まであぶれですぜ」
「どうも、弱った、弱った」
 仙波阿古十郎、一世一代の大しくじり。喰い意地を張ったばかりに、女賊の小波にうまくしてやられ、金蔵破りの張り番をしたという眼もあてられぬ経緯《いきさつ》。
 ……性来下司にして、口腹の欲に迷い、ウマウマ嵌められました段、まことに面目次第もこれなく、……というお役御免の願書をたたきつけて、とめる袂をふりきって北町奉行所をおンでたまでは威勢がよかったが、そういつまでも部屋にばかりころがっているわけにもゆかない。
 なんとか食の途《みち》をあけようと思っている矢さき、ふと居酒屋で知りあった雷土々呂進。どうせ世をしのぶ仮りの名だろうが、このご仁も喰いつめてテッパライ。盃をやりとりしているうちにひどく気があって、
「どうでしょう、ふたりで辻駕籠でもやってみたら、なんとか喰いつなげるかもわかりません」
「面白い、やりましょう」
 で、始めたやつ。
 空ッ脛だけが元手《もとで》の朦朧《もうろう》駕籠屋。
 親方もなし、駕籠宿もなし、したがって、繩張りなんてえものもない。
 縁日、縁日をたよりに、きょうは白金の辻、明日は柳原堤《やなぎわらどて》と、風にまかせて流して歩き、このへんと思う辻々で客待ちをする。気楽は気楽だが、やっぱり法にかなってないとみえて、あまりパッとしない。
 辻のせいばかりじゃない、月ぎめ銀二朱で借りた見るかげもない古四ツ手。
 垂れはちぎれ、凭竹《もたれ》は乾破《ひわ》れ、底が抜けかかって、敷蒲団から古綿がはみだしている。とんと、闇討にあった吉原駕籠の体《てい》たらく。
 おまけに、駕籠舁がいけない。
 アコ長のほうは、ごぞんじの通り、大一番《おおいちばん》、長面《ながづら》の馬が長成《ながなり》の冬瓜《とうがん》をくわえたような、眼の下一尺二寸もあろうという不思議な面
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