ほのぼのとした、なんとも微妙な匂いである。
 この家の主人の気質は、手紙の文脈からも、だいたい察しられたが、香木五十八種の中にもないような、こんな珍らしい香を惜しげもなく焚《た》きしめるというなどは、よほどの風流。客を応待する心の深さもしのばれて、なかなか奥床《おくゆか》しいのである。
 さて、顎十郎は、そういう馥郁たる匂いを嗅ぎながら、ややしばらくのあいだ、文鳥のような優しい眼と睨めっこをしていた。いや、睨めっこといっては少し違うかも知れない。砕いて言えば、腰元の美しい眼ざしが、顎十郎の呆けた眼玉にしんねりと絡みついて、なかなか放さないのである。そういう工合なもんだから、顎十郎のほうも眼をそらすわけにはゆかない。いきおい、睨めっこのような工合になる。
 気まずいようでもあり、また、そうとう楽しいようでもある。なんともむず痒《かゆ》い気持で、うっそりと腰元の顔をながめていると、このとき腰元は、手の甲を口にあてて、ほほほと艶《えん》に笑った。
「どうして、そのように、わたくしの顔ばかり眺めておいでになります」
 なんとも言えぬ婀娜《あだ》な上眼づかいで、チラと顎十郎の顔を睨んで、
「……
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