人が椅子から立って、ドヤドヤと佐原屋のほうへ駈けよって、
「こんなところへ寝ころんでしまっちゃいけないな……どうなすったんだ」
「おい、どうしたんだ、佐原屋……」
 あわてて引きおこしてみると、佐原屋はもう絶命《ぜつめい》していた。
 よほど苦しかったのだろう、手の指を蟹の爪のように曲げて絨毯にくいこませ、目玉が飛びだすばかりにクヮッと眼を見ひらき、どす黒い舌を歯で噛んで、そこから流れだした血が頬のほうへまっ赤な筋をひいている。
 佐原屋清五郎は頸に巻きつけている蕃拉布で、力まかせに頸を縊《し》められて死んでいた。
 燈灯が消えてから、早附木で灯をともすまでの、ほんの[#「ほんの」は底本では「ほんのの」]三分のあいだの出来事だった。

   水飛沫《みずしぶき》

 町医者を呼んで、さまざまに手を尽してみたが、佐原屋はとうとう生きかえらない。
 窓の下は、石崖からすぐ川で、水面から檐《のき》まで三十尺もある二階座敷。
 廊下のほうは、太鼓なりの渡り廊下のはしから階下へおりる階段へつづき、片側はずっと砂壁《すなかべ》で、二階座敷はここだけで行きどまり。
 階段の下は錠口になっていて、不時《ふじ》の攘夷派の襲撃にそなえるために、車びきの重い、土扉《つちど》が閉まり、出入のたびに、いちいち鍵で開閉することになっている。
 そういう用心堅固な座敷にスラスラと入りこんで来て、ほんの二三分のあいだに佐原屋を縊《くび》り殺し、土扉を開閉もせずに風のように出て行くなどという物理を超越したことが、人間の力で出来ようとは考えられない。
 五人がすわっていた円卓と、佐原屋清五郎が倒れていた場所とのへだたりは、すくなくとも四間はあった。
 かりに、円卓についていた五人のうちの誰かが、灯りの消えた束の間にツイと立って行って佐原屋を縊り殺し、また椅子にもどって来られそうにも考えられようが、そういうことが絶対に不可能だったということは、その時、軒さきに吊るした吊龕籠《つりがんとう》の薄あかりが右手の丸窓からぼんやりと円卓の上へさしかけていて、おぼろげながら人の顔が見えるくらいに明るかったので、円卓を離れて立って行ったものなどは一人もなかったことは、お互いがはっきり知っている。
 ところで、医者の診断では、卒中でも霍乱《かくらん》でもない。まぎれもなく絞め殺されて死んだのに相違ないという。……この世の中に理外の理というものがあれば、まさに、こういうのを言うのだろう。
 検視の役人が来るのを待つあいだ、五人は階下の小座敷にあつまって顔つきあわして坐っていた。
 世故《せこ》にもたけ、そうとう機才のある連中ばかりだから、たいていのことならばそれぞれ至当の意見もあるべきところだが、この奇妙な出来事だけは、なんとも思惟《しい》の下しようもなく、ただただ合点のゆかぬことだと言いあうばかりだった。
 雨がやんで、檐《のき》に月影がさす。
 鼻を突きあわせて、ムンズリと坐ってばかりいてもしょうがないから、酒を運ばせてしめやかに飲みだしたが、さっきの今だから、座が浮き立つはずもない。いわんや、二階には佐原屋の無惨《むざん》な死体がそのままに置かれてある。
 それに、一同の心の中には共同の不安というようなものが重苦しくたぐまっていて、考えがとかくそちらへばかり行く。互いに顔を見られぬように用心しながら、黙々と盃をふくんでいたが、そのうちに日進堂が思いきったようにズカリと口を切った。
「……私ひとりの考えではあるまい、みんなも、肚《はら》ではそう思っているのだろう。こりゃア、たしかに攘夷派の連中の仕業だと思うんだが、みなさんのご意見はどうです。……さっきから、ちっともその話が出ないようだが」
 そう言って、同意を求めるように、一座の顔を眺めわたした。
 佐原屋が絞め殺されているのを見た時、とっさにみなの頭にひらめいたのはこの考えだったが、そのやり方になんともいえぬ凄いところがあって、闇討ちや刀槍《とうそう》の威迫《いはく》にはいっこう驚かぬ剛愎な連中も、さすがにどうも膚寒《はださむ》い気持で、その話にだけはなんとなく触れたくなく、諜《しめ》しあわしたように口を噤《つぐ》んでいた。
 日進堂がそう言うと、和泉屋は、むしろホッとしたような顔で、
「まず、そうと思うよりほかはない。……われわれとしては、すでに覚悟のあることで、こんなことぐらいで弱気になるのではないが、あまり水ぎわ立ったやり方なんで、さすがに、ちっとばかり凄いようで……」
 佐倉屋もうなずいて、腕を組んで凝然《ぎょうぜん》としている仁科のほうへ向きなおり、
「……ねえ、仁科さん……たとえ、どう理が合わなくとも、これが獺《かわうそ》や、怨霊《おんりょう》のしわざだなぞと、そんな馬鹿気たことはわたしらは考えない。……絞めた
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