顎十郎捕物帳
蕃拉布
久生十蘭

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)夕立《ゆうだち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)向島|白髭《しらひげ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字4、1−13−24]
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   夕立《ゆうだち》の客《きゃく》

「……向島《むこうじま》は夕立の名所だというが、こりゃア、悪いときに降りだした」
「佐原屋《さわらや》は、さぞ難儀していることだろう。……長崎屋さん、ときに、いま何字でございますね」
「はい、ちょうど七字と十ミニュート……」
「ああ、そうですか。……六字に神田を出たとして、駕籠ならば小泉町、猪牙《ちょき》ならば厩橋あたり。……ずぶ濡れになって、さぞ、弱っているだろう」
「……佐原屋のことだから、如才《じょさい》なく船宿へでも駈けこんだこッたろうが、それにしても、この降りじゃ……」
 向島|白髭《しらひげ》の、大川にのぞんだ二十畳ばかりの広座敷。
 朱塗の大きな円卓《えんたく》をかこんで、格式張ったお役人ふうなのをひとりまぜ、大商賈《おおどこ》の主人とも見える人体《じんてい》が四人、ゆったりと椅子にかけ、乾酪《チーズ》を肴に葡萄酒の杯をあげている。
 ちょっと見には、くすんだくらいの実直《じっちょく》な着つけだが、仔細に見れば生粋《きっすい》の洋風好み、真似ようにも、ここまではちょいと手のとどかない、いずれも珍奇な好尚《こうしょう》。
 里紗絹《リヨンぎぬ》の襦袢《じゅばん》に綾羅紗《あやらしゃ》の羽織。鏤美《ルビー》の指輪を目立たぬように嵌めているのもあれば、懐時計《ウォッチ》の銀鎖《ぎんぐさり》をそっと帯にからませているのもある。
 この春、舶載《はくさい》したばかりの洋麻の蕃拉布《ハンドカチフ》を、競うようにひとり残らず首へ巻きつけ、襦袢の襟の下から、うす黄色い布色をチラチラとのぞかせている。
 それもそのはず、ここに居おうのは開化五人組《かいかごにんぐみ》といわれる洋物屋の主人。
 いずれも腐儒《ふじゅ》の因循《いんじゅん》をわらい、鎖港論《さこうろん》を空吹く風と聞き流し、率先《そっせん》して西洋事情の紹介や、医書、究理書の翻刻に力を入れ、長崎や横浜に仕入れの出店を持って手びろく舶載物《はくさいもの》を輸入する、時勢から二歩も三歩も先を行く開化の先覚者。
 毎月八日に、この長崎屋の寮で句会をひらく。俳句はぼくよけ[#「ぼくよけ」に傍点]で、実は、大切な商談の会。
 顧問格の、仁科という西洋通を正客にまねき、最近の西洋事情やら外国船の来航の日取りをきく。
 たがいに識見を交換し、結束をかたくして攘夷派《じょういは》の圧迫に耐え、一日も早く、日本をして文明の恩恵に浴さしめ、新時代を招来して、その波に乗って巨利を博そうという商魂志心《しょうこんししん》。
 正座についている、精悍《せいかん》な顔つきをした役人ふうな瘠せた男は、もと長崎物産会所《ながさきぶっさんかいしょ》の通訳で、いまは横浜交易所《よこはまこうえきしょ》の検査役|仁科伊吾《にしないご》。
 その手前にかけている小柄な男は、洋書問屋の草分《くさわけ》、日本橋|石町《こくちょう》の長崎屋喜兵衛。年に二回|和蘭《オランダ》の書物が輸入されるときになると、洋学書生どもが、大枚の金を懐にして、百里の道をも遠しとせず、日本の隅ずみからこの長崎屋を目ざして集って来る。
 仁科の右どなりにいるのは、交易所|洋銀両替承《ドルりょうがえうけたまわり》の和泉屋五左衛門《いずみやござえもん》。その隣が、洋書翻刻の米沢町《よねざわちょう》の日進堂《にっしんどう》。
 長崎屋の下座《しもざ》にいるのが、西洋医学機械を輸入する佐倉屋仁平《さくらやにへい》。
 もとは、佐倉の佐藤塾で洋方医の病理解剖を勉強していたが、墓から持って来たたったひとつの髑髏《しゃりこうべ》が唯一《ゆいつ》の標本。佐藤泰然《さとうたいぜん》先生の辞書や標本をせっせと謄写する情ないありさまに奮起して、医学の勉強のほうはキッパリと思いきり、日本の開化のために、率先《そっせん》して西洋の医学機械を輸入しようという志を立てたいっぷう変った人物。
 ちょうど、話題は横浜の屑糸取引《くずいととりひき》の禁制に移ったところだったので、いきおい佐原屋の噂になって、
「……佐原屋といえば、こんどの禁制でいちばん手いたい目にあった組だ。一万斤の生糸の売渡しが破談になったばかりか、そのためにトーマス商会と訴訟になり、その談判に一日の通弁料が百両という仕あわせでは、いかに佐原屋でも屁古《へこ》たれたこったろう」
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