和泉屋がいうと、日進堂は首を振って、
「どうして、なかなか……ご承知の通り、あの気性《スピリット》だから、攘夷派が二三度攻撃したからって、それで恐入ってしまうような弱気《ウイークネス》な男じゃない……入関禁制の布令《ふれ》を聞くと、ケチのついた荷など引きとれねえというんで、神奈川の三文字屋《さもんじや》へ船をつけ、店の前へ荷を山のように積みあげて火をつけて、ぜんぶ焼いてしまったそうな」
 長崎屋は、ほう、と驚いて、
「そりゃア、ずいぶん思いきったことをしたもんだな……豪放もけっこう、無茶もいいが、それも時と場合による。こういう際に、ことさらに攘夷派を刺戟《ストラッグル》して紛争を求めるようなことは、慎《つつし》んだほうがいいと思うが……」
 仁科伊吾はうなずいて、
「……そうそう、私もいつかその点を指摘しようと思っていたんです……取引の上のことはともかく、おおっぴらに城陽亭へ入って肉叉《ホーク》をつかったり、独逸商館《ドイツしょうかん》の理髪床で頭髪を刈ったりするようなことは、たんに攘夷派の感情を煽《あお》るだけで、稚気に類したことだから、ありゃア、なんとかして止させなくてはいけませんな。……あんなことばかりしていると、むこうだって黙っていられないから、なにかひどいことをやり出すかも知れない、今だって、そういう危険は充分あるんだから……」
 そこへ、渡りの廊下の端で、
「まア、いいいい……ちょっと、みなに、このなりを見せてやるんだ」
 案内の女中に、笑いながらそんなことを言っている声がきこえ、濶達な足音が近づいてきて、竹簀茣蓙《たけすござ》を敷いた次の間へ入って来たのが、丸三、佐原屋|清五郎《せいごろう》。
 色が浅黒く、いい恰幅で、藍がかった極薄地羅紗《ごくうすじらしゃ》の単衣《ひとえ》羽織に、透しのある和蘭呉絽《オランダごろ》の帯しめ、れいの、お揃いの蕃拉布を襟に巻いている。
 水からあがったように、頭から爪先までグッショリ濡れたまま、おどけた恰好で座敷の入口に突っ立ち、団十郎張りの大きな目玉を笑いたそうにギョロギョロさせている。
 一同、そちらへ振りかえったが、あまりおかしな様子をしているので、思わず噴きだしてしまい、
「は、は、は……佐原屋さん、ひどい目にあいなすったね。それじゃア濡れ鼠どころじゃない、まるで、濡《ぬ》れ仏《ぼとけ》だ」
 和泉屋が言うと、日進堂も腹をかかえながら、
「濡れ仏、とは、うまいことを言ったもんだ……額からしずくをたらしながら、そうして目玉をむいて突っ立っているところなんざ、牛込|浄源寺《じょうげんじ》の弥勒仏《みろくぶつ》そっくり。……これが、江戸一の開化人だとは、とても、信じられぬくらいだ」
 と、ひやかすと、佐原屋清五郎は、なんのせいかひどく赤らんだ額のしずくを、手のひらでぬぐいながら、
「その馬鹿《イジオット》なところを、ちょいとお目にかけようと思って、こうしてここに突っ立っているのさ。……いやはや、急々如律令《きゅうきゅうにょりつれい》……山谷《さんや》を漕ぎだすと、いきなり、ドッと横ッ吹きの大土砂降《おおどしゃぶ》り。……大川のド真中だから、今さら引っかえすわけにもゆかず、板子をひっかぶってしのいでいたが、とうとう下帯までグッショリになってしまった。それにしても、濡れ仏とは縁起でもないことを言いなさる」
 ひどく上機嫌にしゃべり立てるのを、長崎屋は、手でおさえるようにしながら、
「いくら夏の雨でも、そんなことをしていては、からだに障る……ひと風呂あびて、浴衣にも着かえていらっしゃい。……いま、湯殿へ案内させますから……」
 佐原屋は、ひょうきんに顔を顰《しか》めて、
「雨水が咽喉へはいって気色が悪くていけねえ。……風呂へ入る前に、葡萄酒《ワイン》を一杯いただこうか」
 と、言いながら、絨毯を踏んで座敷のほうへ入りかけようとした途端、ドツと吹きこんで来た川風に、蝋燭の灯があおられてフッフッと次々に吹き消え、部屋の中がまっ暗になった。
「おッ、これはいけない」
「灯《あか》し、灯し……」
 口々に騒いでいるうちに、闇の中で、ううむ、と奇妙な唸り声がきこえだした。
「そこで唸っているのは佐原屋さんか? まるで縊《し》め殺されるような声を出すじゃないか」
「佐原屋さん、子供でもあるまいし、つまらない真似はおよしなさい」
「ほんとに、気味の悪い声だぜ」
 そうしているうちに、長崎屋が、地袋の棚から早附木《マッチ》をさぐり出してきて蝋燭の火をともす。
「やれやれ、やっと明るくなった」
 で、広《ひろ》座敷の入口のほうをふりかえって見ると、控《ひかえ》座敷と広座敷のちょうどあいだくらいのところで、佐原屋が俯伏せになって倒れている。
「おッ!」
「これは!」
 口々に叫びながら、おどろいて、五
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