た時も、まだ降っていたそうだな」
「へえ、降っておりました」
「今朝、お前がおれのところへ来たとき、座敷には足跡らしいものもございませんでしたと言ったな……それは、いったいどうしたわけなんだ」
「どうしたわけ、とおっしゃると」
「その土砂降りに屋根から舞いこんだとすると、廊下や絨毯に濡れた足跡ぐらい残っていなけりゃならないはずだ。……それなのに、そんな気配もなかったというのは、どうしたことだと訊いているんだ」
「おッ」
「おッに、ちがいねえ。……それがすなわち、屋根からなんぞ這いこんだのではない証拠」
ひょろ松は、あっけらかんと顎十郎の顔を眺めていたが、大きな息をひとつつくと、感にたえたというような声で、
「こりゃ、どうも。そこには気がつかなかった。さすがは阿古十郎さん、……なるほど、そう言われてみりゃア、こりゃあ理屈だ」
髷節へ手をやりながら、うらめしそうな顔で、
「それにしても、あなたもおひとが悪い。そうならそうと、最初《はな》っから言ってくださりゃ、こんなところで炎天干《えんてんぼし》になんぞならなくってすみましたものを」
顎十郎は、大口をあいて笑いながら、
「たまには虫干をするのもいいと思ってな」
「なんとでもおっしゃい。……そうとわかったら、馬鹿馬鹿しくって、もう一時だってこんなところにいられやしない」
ブリブリ言いながら、檐へかけた梯子をつたってドンドン庭のほうへおりて行く。
顎十郎は、ひょろ松のうしろについて、ノソノソと玄関の踏石へおりながら、切妻板《きりづまいた》の[#「おりながら、切妻板《きりづまいた》の」は底本では「おりながら|、切妻《きりづまいた》板の」]むこうの壁の凹所《へこみ》のほうを眺めていたが、なにを見たのか、とつぜん、
「おや」
と、おしつけたような低い叫び声をあげた。
「おい、ひょろ松、ここに変ったものがある。……あそこを見ろ」
ひょろ松が、指さされたところを見ると、黒漆塗の札に『春鶯句会《しゅんおうくかい》』と胡粉《ごふん》で書いてあって、その左に、仁科伊吾を筆頭にして、六人の席札がずらりと掛けつらねられてある。
ここまでは、かくべつ不思議はないが、六枚の席札のうち、誰のしわざか、佐原屋と佐倉屋と和泉屋の名を筆太にグイと胡粉で抹殺してある。
ひょろ松は、合点《がてん》のゆかぬ顔で、
「これは句会の名札ですが、これが……どうしたというんです」
「お前にはこの凄味がわからねえか。……おい、ひょろ松、今日は、いったい、どっちの通夜なんだ」
「蠣殻町《かきがらちょう》の、佐原屋のほうです」
「すると、五人組の連中は、当然、蠣殻町に集っているわけだな」
「へえ、そうでございます」
顎十郎は、急に眼ざしを鋭くして、
「そんなら、こうしちゃいられない、まごまごしていると、こんどは和泉屋が殺《や》られてしまう。……さあ、大急ぎで日本橋まで突っ走ろう……ひょろ松、来い」
尻切草履を突っかけると、むやみな勢いで土手のほうへ走りだした。
竜舌蘭《りゅうぜつらん》
夜もふけて、かれこれ八ツ半。
短い夏の夜のことだから、もうひと刻もすれば東が白む。
日本橋蠣殻町、海賊橋《かいぞくばし》ぎわの佐原屋の近くで、宵の口からウソウソと動きまわるただならぬ人のけはいがあった。
橋の下、塀の片闇、天水桶のかげ、柳の根もと。
まだ月の出ぬ闇だまりの中に影のように這いつくばい、時にはよりそってなにかヒソヒソと囁きあうと、もとのところへ帰って、また動かなくなる。
夜がふけるにつれて、蠢《うごめ》くものの影はいよいよその数を増し、橋むこうの向井将監の邸の角から小網町《こあみちょう》の鎧《よろい》の渡し、茅場町の薬師《やくし》から日枝神社《ひえじんじゃ》、葭町《よしちょう》口から住吉町《すみよしちょう》口と、四方から蠣殻町一円を蟻のはいでる隙間もないよう押しかこんでしまった。
一丁目のほうへ鍵の手に黒塀がめぐり、そのはしが土蔵になっている。
その廂《ひ》あわいの、おんどりと暗い闇の中にしゃがんでいるのが、顎十郎とひょろ松。まるで、蝙蝠が翼でもひろげたように、たがいに袖で口をおおいながら、地虫の鳴くように低い声でボソボソとささやきあっている。
「ねえ、阿古十郎さん、詮《せん》じつめたところ、あなたの見こみはどうなんです。……なにしろ、定廻り、隠密廻り、目明し、下っ引、と二百人にもあまる人数を総出させ、こうして蠣殻町をひっつつんでしまったというのには、それ相当のたしかな目当てがあってのことでしょうねえ。……気障なことを言うようですが、これだけの人数を動かしておいて、今晩はやって来ませんでした、また明晩のお楽しみじゃ、北町奉行所の面目は丸つぶれ、たいへんな物笑いになるわけですが、そいつは間違いなく
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