今晩やって来るんですか。……もう、かれこれ八ツ半。間もなく夜も明けますが、今もって姿を現さないところを見ると、少々心細いことになりましたね。……まったく、こりゃあ、気が気じゃねえ」
 顎十郎は、フンと鼻を鳴らして、
「相変らず、びくしゃくした男だの。なにもそう気をもむにゃア当らない。おれは神でもなければ仏《ほとけ》でもない、やり損いもあろうし、しくじりもあろう。そんなことを怖がって仕事が出来るものか。……見ん事しくじったら、おれがひとりでひっしょって、坊主になってやるから安心しろ」
「あなたを坊主にして見たってしょうがない。それより、テキがやって来てくれたほうが、よっぽど有難いんで……」
「せっかくだが、ひょろ松、ひょっとすると、テキなんぞやって来ないな」
「えッ、なんですって」
「おれは、テキがやってくるなんてひとことも言ったおぼえはないぞ。ただ、和泉屋が今晩やられると言っただけだ」
「こりゃあ、驚いた……すると、これだけの人数を伏せたのは、いったい、どういうことになるんで」
「つまるところ、ぼくよけ[#「ぼくよけ」に傍点]だ」
「ぼくよけ……」
「敵を油断させるための遠謀深慮さ」
「すると、あなたは……」
「いかにも、その通り、おれの見こみでは、下手人はたしかに残った四人の中にいる」
「えッ」
「あの晩のことをよく考えて見ろ。……広座敷から出て行った証拠も入った証拠もないとすると、下手人はあのとき座敷にいた五人の中にいたのだと思うほかはなかろう」
 と言って、チラリと土蔵のほうへ流眄《ながしめ》をくれながら、
「だから、うまく言いくるめて土蔵の中へご避難をねがい、うかつに出られねえように締めこんであるんだ」
 ひょろ松は、納得のゆかぬ顔つきで、
「……でも、それはチトおかしかないですか。……佐原屋が控え座敷で締め殺されたとき、誰ひとり椅子から立っちゃいないんです。……それに、佐倉屋のときにしてからがそうでしょう。佐倉屋はじぶんで艫へ立ってゆき、あとの三人は胴の間に坐っていてピリッとも動きはしなかったんです。それなのに、あの連中に下手人がいるのだとおっしゃるのは、いったい、どういう趣旨によることなんで……」
「世の中には、理外の理といって、人間の智慧では思いも及ばないようなこともある。おれにはうすうす見当がついているが、チトはっきりしかねる節《ふし》があるので、八王子の柚木容斎《ゆのきようさい》先生のところへ猪之吉を飛ばせて、ちょっと物をたずねにやった」
「柚木先生というと、あの、西洋薬草園の」
「そうだ……猪之が間にあうように早く帰ってくれりゃアいいが。さもなければ、和泉屋はたぶん明けがたまでに殺られてしまう。……猪之吉の帰りがさきか、和泉屋が殺られるのがさきか、ここが、千番に一番の兼ねあいという場合なんだ」
「おッ、そりゃア大変……じゃ、いまの間に、なんとか、和泉屋を……」
「ところが、それがいけない。……いま言ったように、核《しん》のところにはっきりしないところがあって、殺されるまではわかっているが、どんな方法で殺られるかわからねえから防ぎがつかないのだ。……それに、アタフタ和泉屋を庇うような真似をすると、むこうが気取って手を出すまいから、退《の》っ引《ぴ》きならぬ現場をおさえてギュッと言わせるわけにはゆかない。……おれの見こみ通りだとすれば、なんともよく考えた企みで、現場をつかむほかそいつを押えつける方法は絶対にない。……正直に言えば、和泉屋の命ひとつを賭けたきわどい勝負で、さすがにおれも気が気じゃない。……ともかく、早く猪之が帰ってくれりゃいいが……」
「あなたにさえ、はっきり方角がつかないことが、あっしなぞにわかるわけはない。……どうしてやるのかそのほうはわからないとしておいて、では、和泉屋が殺られるというのは、ぜんたい、どこから割りだしたことなんで……」
「これは、思いきってくどい男だ。……和泉屋の名を抹殺してあったあの席札のことを考えて見ろ。……洒落や冗談であんな縁起でもないことをするか」
「……じゃ、仮りに、殺されるのは和泉屋だとして、では、殺すほうは誰なんです。あの土蔵の中には、和泉屋をのけて三人の人間しかいない。仁科に、長崎屋に、日進堂……。外部から来るのでないとすると、殺すのはこの三人のうち。……あなたには、どいつが下手人なのか、もう、お見こみがついているんですか」
 顎十郎はうなずいて、
「だいたい、当りはついている。……こうまで執念深くからむ以上、いずれにせよ、あれらの仲間になにか深い怨みを持っているやつ」
「……それで?」
「おれの見こみでは、まず、日進堂」
「えッ」
「たぶん、そのへんと思って、出来るだけくわしく三人の素性を調べて見た」
「へい」
「……ところでこの日進堂、……十二歳のとき日進
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