あおられたはずみに、ヒョロリと足をひょろつかせて、他愛もなくザブンと川の中へ落ちこんでしまった。
 一同はおどろいて、思わず、あッ、と声をあげたが、川には小波ひとつなく、それに、水練にかけてはひとに負けない佐倉屋のことだから、間もなく、やア、ひどい目にあった、などと言いながら浮きあがって来るのだろうと思っていると、よほど深く沈んだとみえて、なかなか浮いて来ない。
 さすがに、気をもんでいるうちに、佐倉屋はとつぜん躍りだすような勢いで浮きあがって来て、口をパクパクさせながら、
「あッ、あッ」
 と、喘《あえ》いでいる。
 ひどく、妙なようすだ。
 頭から濡れしずくになって、眥《まなじり》が張りさけんばかりにクヮッと眼をむき、なにか、眼に見えぬ水中の敵とでも争うような恰好で、凄じい水飛沫《みずしぶき》をあげながら夢中になって両手で水を叩きまわっていたが、それも束の間で、また引きこまれるようにググッと水底へ沈んでしまった。
 佐吉は舷側《ふなばた》から乗りだして、眉を寄せながらそのようすを見ていたが、ドキッとしたような顔で四人のほうへ振りむくと、
「……どうも、様子が変ですぜ……」
 仁科はうなずいて、
「こりゃア、たしかに妙だ……御苦労だが、かいしゃくしてやってくれ」
「ええ、ようございます」
 佐吉は絆纒《はんてん》をぬぎすてると、逆落《さかおと》しに川の中へ躍りこみ、ほどなく佐倉屋をかかえて上って来て、艫から差しだしている手へ佐倉屋の襟をつかませたが、フト、ぐったりしている佐倉屋の喉のあたりに眼をすえると、
「おッ、こりゃア、どうしたんだ……し、し、絞め殺されている!」
 と、叫んだ。
 佐倉屋は、昨夜の佐原屋と同じように、蕃拉布できつく首を絞められて絶命していた。

   席札《せきふだ》

 長崎屋の寮の筥棟《はこむね》の上。
 まるで雨乞いでもするような恰好で、うっそりと腰をかけているのが、顎十郎。
 漆紋《うるしもん》の、野暮ったい古帷子《ふるかたびら》の前を踏みひらいて毛脛を風に弄《なぶ》らせ、れいの、眼の下一尺もあろうと思われる馬鹿長い顔をつんだして空嘯《うそぶ》いているさまというものは、さながら、屋の棟に鰹木《かつおぎ》でも載っているよう。これが、いま江戸一といわれる捕物の名人とは、チト受取りにくい。
 檐に近いところでは、れいのひょろ松、熱い瓦を踏みながら、廂《ひさし》をのぞきこんだり、樋口を調べたり、河から照りかえす西陽《にしび》をまっこうに浴びながら、大汗になって屋根の上を走りまわっている。
 顎十郎は、扇子で脇の下へ風をいれながら、うっそりとそれを眺めていたが、ああんと顎をふりあげると、おかったるい間のび声で、
「どうだ、ひょろ松、なにか眼星しい手がかりがあったか」
 ひょろ松は、檐のはしへ手をかけて廂の下をのぞきこみながら、突慳貪《つっけんどん》に、
「ええ、ですから、そいつをこうして探しているんで……」
 顎十郎は、ニヤニヤ笑いながら、
「そうやって、尻を持ちあげて檐下をのぞいている様子なんざ、ちょっと、鳥羽絵《とばえ》にもない図だぜ。……ついでのことに股倉眼鏡《またぐらめがね》でもしてみたらどうだ、変った景色が見えるかもしれねえ。……お江戸が見える、浅草が見えるッてな」
 ひょろ松は、ムッと頬をふくらせ、
「ひやかすのはおよしなさい……そんなところで高見の見物ばかりしていないで、すこし手伝ってくれたらどんなもんです。……あっしだって、洒落や冗談でこんなことをしている訳じゃねえんでさ」
「そう怒るな……あまり怒ると腹なりが悪くなる。……冗談は冗談として、いつまでそんなことをしていたっておかげがねえ、もう、そろそろ切りあげたらどうだ。いくら屋根を嗅《か》いで廻ったって、こんなところに手がかりなんかあるはずはないんだ」
 ひょろ松はツンとして、
「ないとは、そりゃまた、なぜに。……どんなことがあっても土扉のほうから来られるはずはないのですから、二階の広座敷へ入りこむとすりゃア、この屋根だけがただひとつの通り道。……だから、こうして、脳天を焦《こが》して……」
「まず、無駄だな」
「ほう、驚いたね……じゃア、そもそもどこから入りこんだと言うんです」
 顎十郎はトホンとした顔つきで、
「それは、おれにもわからない。……それで、こうやって、せいぜい首をひねっているところだ」
「相変らずはぐらかしますねえ、まともに口をきいていると馬鹿を見る……まあ、それはいいとして、あいつが屋根を通らなかったというゆえんは、ぜんたい、どうなんです」
 顎十郎は、ポッテリした顎をのんびりと指の先でつまみながら、
「佐原屋が絞め殺されたとき、えらい土砂降りだったそうだな」
「ええ、そうです」
「寮からの迎えで、お前があわてて駈けつけ
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング