まだひと通りもある宵の口に、十三人もいっぺんに神隠しにあうなどというのは前代未聞のことで、ただただ、奇ッ怪というよりほかはなかったのである。

   南と北

 甲斐守がふいと顔をあげる。
 老中阿部伊勢にみとめられ、小十人頭《こじゅうにんがしら》から町奉行に抜擢《ばってき》された秀才。まだ、三十そこそこの若さである。蒼白い端正な面《おもて》を藤波のほうにふりむけると、
「言うまでもないことだが、古くは絵島生島《えしまいくしま》事件。近くは中山法華経寺《なかやまほけきょうじ》事件というためしもある。……さなきだに、とかくの世評のある折柄、御三家の奥女中が芝居見物の帰途、十三人もそろって駈落ちしたなどと取沙汰されるようなことにでもなれば、徳川家《おかみ》御一門の威信にかかわるゆゆしい問題。……さような風評の立たぬうちに、いかなる手段《てだて》を講じても事件の本末をたずね、十三人の所在をあきらかにせねばならぬ」
 といって、言葉を切り、
「たんに、世評のことばかりではない。実は、このことは、まだ茂承《もちつぐ》さまには内密にしてある。……存じてもおろうが、紀州侯は、諸事ご厳格な方であら
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