騒ぎの最中に、どこからともなく、こんな呼び声がきこえてきた。
「帰りが、こわいぞ。帰りがこわいぞ」
海洞《ほらあな》に潮がさしこんでくるような異様に朧《おぼ》ろな声で、はっきりと三度までくりかえした。
なにしろ、そんな騒ぎのおりからでもあるし、大して気にするものもなかったが、先刻《せんこく》のひわ[#「ひわ」に傍点]という腰元だけは、これを聞くと、また血の気をなくして、
「あ、あれは、お祖師様のお声です。……ああ、怖い、おそろしい」
と、耳をふさいで突っぷしてしまった。
なにをつまらぬ、で、そのときは笑いとばしたが、このことが、なんとなく不気味に朝顔のこころに残った。
「ひわ[#「ひわ」に傍点]と申すものは、日ごろから癇のつよい娘でございまして、よく痙攣《ひきつ》けたり倒れたりいたします。たぶん、夢でも見てそんなことを口走ったのでございましょうが、またいっぽうから考えますと、日ごろの信心を愛《め》でられ、お祖師様がひわ[#「ひわ」に傍点]の口を通して、ご示験《じげん》くださったのではありますまいか。埓もないことのようですが、ひとこともうし添えます」
という大井の申立てだった。
前へ
次へ
全32ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
久生 十蘭 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング