くすうよう》、陀羅尼品《だらにぼん》の読経《どきょう》がすんで、これから献香花《けんこうか》の式に移ろうとするとき、下座《しもざ》にいたひわ[#「ひわ」に傍点]という腰元が、とつぜん、あッと小さな叫び声をあげて顔を伏せてしまった。となりに坐っていたお伽坊主《とぎぼうず》の朝顔という腰元が、そっとたずねると、いま、お祖師《そし》様が憐れむような眼つきで、じッとわたしの顔をごらんになった、と妙なことを口走った。
 一行が市村座へついたのは巳刻《よつ》(午前十時)すぎで、茶屋からすぐ桟敷へ通ると、簾《みす》をおろして無礼講《ぶれいこう》の酒宴がはじまった。
 狂言は黙阿弥《もくあみ》の『小袖曽我薊色縫《こそでそがあざみのいろぬい》』で、小団次《こだんじ》の清心《せいしん》に粂三郎《くめさぶろう》の十六夜《いざよい》、三十郎《さんじゅうろう》の大寺正兵衛《おおでらしょうべえ》という評判の顔あわせ。
 湧きかえるような掛け声をあびながら小団次が強請《ゆすり》の啖呵《たんか》を切っていると、桟敷の下で喧嘩がはじまった。足を踏んだ、踏まぬという埓もない酔漢同士のつかみあいだったが、このてんやわんやの
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